検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か

検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か


テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録


カント哲学は、PS理論から見ると、Media Pointを超越論性で、いわば、閉じている。Media Pointの視点からは、物自体は直観されるのである。
 超越性をカントは超越論性で押さえているのである。超越論性とは、⇒+1における、⇒と+1の境界であろう。ただし、それは、⇒に対して、「背を向けている」。
 とまれ、⇒と+1の境界を超越論性、あるいは、超越論的理性と呼べるだろう。
 ここにおいて、自由と必然のアンチノミーが形成されると言えよう。自由は⇒の先端に接するので、生じるのだろう。必然は+1に拠る。
 この境界は言わば、ヤヌスであり、差異と同一性の両方向を向いているのであるが、それは、両面が矛盾的に存立しているのであり、両価的に留まり、アンチノミーになるのである。
 この中間的、ないしは、中途的な位置が、ポスト・モダンなのではないだろうか。ハイデガーの位置もほとんどここにあるように思えるのである。初期デリダもそうであるし、ドゥルーズは、差異を連続化して、同一性と一体化させてしまった。それは、ヘーゲル化であろう。
 今はここで留める。後で、精緻に検討したい。


純粋理性批判


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Kant Kritik der reinen Venunft 1781.jpg


純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、独:Kritik der reinen Vernunft) は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カント の主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787 年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判 』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判 』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。
概論 [編集 ]

純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適用の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) にしたがって事物 (Sache, Ding) を認識 すると考えるが、この原理は理性に経験 にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリ な認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental) な認識形式にもとめ、それによって認識理性 (theoretische Vernunft) の原理を明らかにすることにつとめる。

初学者向けの解説: すなわち「認識する」とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せたのである。[1]

人間的認識能力とその制約 [編集 ]

伝統的な懐疑論 は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体 」 (Ding an sich) と経験の対象である「物」 (Ding) を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit) と悟性 (Verstand) に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung) と 概念 (Begriff) によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観 (reine Anscuauungen) ・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie) すなわち純粋悟性概念 (reine Verstandbegriffe) のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性 (menschliche Vernunft) が、われわれの認識能力 (unser Erkenntnisvermoegen) を越えるものに、認識能力を適用することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア (理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft) の産出する図式 (Schema) である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit) は統覚 (Apperation) 、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルト のコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik) がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識 (erkennen) されえないものはただ思惟する (denken) ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
アンチノミー(二律背反) [編集 ]

理性概念・理念 (Idee) は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反 (Antinomie) する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題 は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定 との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能をみいだしたのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。




倶利伽藍とクンダリニー


テーマ:Media P./Vector Mode


倶利伽藍不動明王を見ると、クンダリニーに似ているし、また、雷や竜巻を想起する。
 後者は、天と地の差異共振エネルギーを考えさせるが、根本はMedia Pointのエネルギーだろう。
 思うに、天から地へ、また、地から天へと「力」がはたらくと考えられる。この共振エネルギーが生命だけでなく、無機物を形成するものではないのか。
 例えば、火山や地震もこの天地共振エネルギーに触発されているのではないのか。
 また、山の形成であるが、それは、Vector Modeではないだろうか。垂直のマグマが地表に衝突して、捩れるのではないのか。
 
本尊「倶利伽羅大竜不動明王
倶利伽羅大竜不動明王

写真: 倶利伽羅大竜不動明王本尊は役行者の自作による倶利伽羅大竜不動明王秘仏)で、古来より運気の守護、命乞い不