近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同

近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


今日・現代、トランス・モダン的転回の時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
 プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。
 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。
 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。)
 とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。
 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。
 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。
 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。
 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。
 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。
 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。
 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。
 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。
 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。
 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。
 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。
 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。
 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。
 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。
 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。
 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。
 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。
 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。
 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。
 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。
 確かに、イエス神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。
 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。
 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。
 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。
 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。
 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。
 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。
 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。
 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。
 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 
 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。
 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。
 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。)
 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。
 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。)
 しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。
 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。
 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェキリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。
 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。
 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。
 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。
 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。
 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。
 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。
 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。

追記:現代日本の「お笑い」似非文化もポスト・モダンであり、また、石原都知事東国原知事もそうであろう。そう、アメーバ麻生首相もそうである。

参考:
シミュラークル しみゅらーくる(読書 )
kokada_jnet

フランス の思想家 、ボードリヤール が提唱した概念 。ポストモダン 社会 における、オリジナル なきコピー のこと。

元来は文化人類学 の用語であり、ある土地の伝統 文化が滅びてしまった後、後世の人間 がそれを惜しんで復活させた「まがいもの文化」を指す。

ボードリヤールシミュラークル とシミュレーション 』(ISBN:4588001361 )の冒頭から引用 。

「シミュレーション とは起源 も現実 性(realite)もない実在(reel)でつくられたもの、つまり(hyper reel)だ」(竹原 あき子訳、法政大学出版局1984年 、1−2頁)

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%DF%A5%E5%A5%E9%A1%BC%A5%AF%A5%EB

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存在論的、広告的、キャラクター的

初出:『広告』2000年3+4月号、博報堂

そもそも、われわれがいま生きているのは複製技術の時代です。何でもコピーができてしまう。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術の時代における芸術作品』という有名な論文がありますが、そこでベンヤミンが取り上げたのは「アウラの消失」という問題だった。アウラ、つまりオーラです。1個しかないオリジナルのものにはオーラがある。たとえば油絵の絵画にはオーラがある。それに対して、コピーされたものにはオーラがない。絵画を印刷するとオーラがなくなる、という話ですね。オーラがなくなると、すべてがシミュラークルとして消費される。それが複製技術の時代であると。「シミュラークル」という言葉をまだベンヤミンは使っていませんが、おおむねこのようなことを彼は主張したわけです。

それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独得のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってくしまう。

例えば最近の立っているキャラとしては、PSソフト「どこでもいっしょ」のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのCDにも同じトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。むろん、それぞれのトロは、飼主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかないですからね。全部決まり事なんですよ。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。

http://www.hirokiazuma.com/texts/character.html


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Simulacra and Simulation
From Wikipedia, the free encyclopedia

Simulacra and Simulation (Simulacres et Simulation in French ) is a philosophical treatise by Jean Baudrillard that discusses the interaction between reality, symbols
Overview
“ The simulacrum is never that which conceals the truth--it is the truth which conceals that there is none. The simulacrum is true.[1] ”

Simulacra and Simulation is most known for its discussion of images, signs, and how they relate to the present day. Baudrillard claims that modern society has replaced all reality and meaning with symbols and signs , and that the human experience is of a simulation of reality rather than reality itself. The simulacra that Baudrillard refers to are signs of culture and media that create the perceived reality; Baudrillard believed that society has become so reliant on simulacra that it has lost contact with the real world on which the simulacra are based.

Simulacra and Simulation identifies three types of simulacra and identifies each with a historical period:

1. First order, associated with the pre-modern period, where the image is clearly an artificial placemarker for the real item.
2. Second order, associated with the industrial Revolution , where distinctions between image and reality break down due to the proliferation of mass-produced copies. The item's ability to imitate reality threatens to replace the original version.
3. Third order, associated with the postmodern age , where the simulacrum precedes the original and the distinction between reality and representation breaks down. There is only the simulacrum.[2]

Baudrillard theorizes that the lack of distinctions between reality and simulacra originates in several phenomena:

1. Contemporary media including television , film , print and the Internet , which are responsible for blurring the line between goods that are needed and goods for which a need is created by commercial images.
2. Exchange value , in which the value of goods is based on money rather than usefulness.
3. Multinational capitalism , which separates produced goods from the plants, minerals and other original materials and the processes used to create them.
4. Urbanization , which separates humans from the natural world .
5. Language and ideology, in which language is used to obscure rather than reveal reality when used by dominant, politically powerful groups.

A specific analogy that Baudrillard uses is a fable derived from On Exactitude in Science by Jorge Luis Borges . In it, a great Empire created a map that was so detailed it was as large as the Empire itself. The actual map grew and decayed as the Empire itself conquered or lost territory. When the Empire crumbled, all that was left was the map. In Baudrillard's rendition, it is the map that people live in, the simulation of reality, and it is reality that is crumbling away from disuse.

The transition from signs which dissimulate something to signs which dissimulate that there is nothing, marks the decisive turning point. The first implies a theology of truth and secrecy (to which the notion of ideology still belongs). The second inaugurates an age of simulacra and simulation, in which there is no longer any God to recognize his own, nor any last judgement to separate truth from false, the real from its artificial resurrection, since everything is already dead and risen in advance. [3]

Thus, Baudrillard further distinguishes three orders of simulacra associated with three historical periods: first order simulacra belong to the pre-modern era in which images were clearly copies or representations of some original; second order simulacra arise with the industrial revolution, photography and mass reproduction technologies in the nineteenth century - the image obscures (dissimulates) and threatens to displace the real; third order simulacra are part of our postmodern era; the image is said to completely precede and determine the real, such that it is no longer possible to peel away layers of representation to arrive at some original.

It is important to note that when Baudrillard refers to the "precession of simulacra" in Simulacra and Simulations, he is referring to the way simulacra have come to precede the real in the sense mentioned above, rather than to any succession of historical phases of the image. Referring to "On Exactitude in Science ", a fable written by Borges , he argued that just as for contemporary society the simulated copy had superseded the original object, so, too, the map had come to precede the geographic territory (c.f. Map–territory relation ), e.g. the first Gulf War (see below): the image of war preceded real war.

Henceforth, it is the map that precedes the territory - precession of simulacra - it is the map that engenders the territory and if we were to revive the fable today, it would be the territory whose shreds are slowly rotting across the map. [4]

[edit ] Criticism

With such reasoning, he characterised the present age ― following Ludwig Feuerbach and Guy Debord ― as one of "hyperreality " where the real object has been effaced or superseded, by the signs of its existence. Such an assertion ― the one for which he is most criticised ― is typical of his "fatal strategy" of attempting to push his theories of society beyond themselves. Rather than saying, that our hysteria surrounding pedophilia is such that we no longer really understand what childhood is anymore, Baudrillard argued that "the Child no longer exists".[5] Similarly, rather than arguing ― as did Susan Sontag in her book On Photography ― that the notion of reality has been complicated by the profusion of images of it, Baudrillard asserted: "the real no longer exists ". In so saying, he characterised his philosophical challenge as no longer being the Heideggerian /Leibnizian question of: "Why is there something, rather than nothing?", but, instead: "Why is there nothing, rather than something?"[6]


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イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援

 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。

 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。

 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。

 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。

 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。

 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。

http://mainichi.jp/select/world/news/20090701ddm007030076000c.html

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