父権的同一性主義の発生について:絶対的トランス・モダン相転移時代

父権的同一性主義の発生について:絶対的トランス・モダン相転移時代:すべての父権文明の絶対的解体へ


テーマ:プラトニック・シナジー理論


本件の問題は、これまで、数多く検討してきたが、やはり、まだ完全には解明されていない、有り体に言えば、すっきりしていない、腑に落ちていないので、再考したい。
 文化史・人類史的には、「太陽神」の問題である。母権制ないしは女神文化においては、「太陽神」は、女神の子・夫・恋人である。エジプト「神話」ならば、イシスとオシリスオシリスである。
 これまで、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺をイシス、右辺をオシリスとした。即ち、イシス⇒オシリスである。しかしながら、⇒がイシスであり、 +iがオシリスであろうが、本来、両者は不可分・非分離である。また、⇒+1は「光」である。つまり、イシスの「光」と「オシリス」の「光」が
あるが、両者不可分一体ということになる。
 日本「神話」ならば、イザナミイザナギの関係やその他であろう。
 父権「神話」とは、ジョゼフ・キャンベルの「神話学」に拠れば、女神・大女神・太母神の殺戮をともなう。これは、Media Pointの否定と考えられる。その究極的様態は、ヤハウェ神と考えられる。女神(大女神、太母神)殺しが父権主義(父権文化・文明)の前提にあるのである。
 そして、この父権主義の帰結として西洋文明、とりわけ、近代西洋文明が生起したと考えられる。近代合理主義(近代的自我、唯物論)が生まれたのである。それは、言い換えると、魂殺し、精神殺しである。(もっとも、単純化して述べている。民主主義とは、本来は、魂・精神から生起した政治志向である。また、イタリア・ルネサンスは、Media Pointから発動していると考えられる。ただし、遠近法のように、同一性志向性に傾斜していよう。)
 問題は、父権主義・同一性主義の意義である。これによって、物質的合理主義=近代科学・技術が生まれ、近代資本主義の支えとなった。
 この父権的同一性合理性であるが、これが意識において果たした役割は何かと言えば、意識の唯物論化であり、魂・精神の排除である。意識の悪魔化である。意識の邪悪化である。(官僚の意識もここから生じていると言える。シュタイナー的に言えば、ルシファー/アーリマン化である。そして、既述済みであるが、シュタイナーのイエス・キリストとは、Media Pointである。シュタイナイーの精神科学は、東洋的である。)
 主観性における、父権的同一性主義の積極的役割は何だろうか。それは、思うに、一般観念形式を形成したことではないだろうか。カント、ヘーゲルで言えば、悟性を形成したことではないだろうか。
 どうやら、この悟性形成が主観性における父権的同一性主義ないしは近代合理主義の積極的意味のように思える。カントの超越論形式が起源と思われる構造主義も悟性の末裔と言えよう。
 すると、トランス・モダンとは、当然、トランス悟性であり、トランス・モダン「知性」を意味する。この「知性」とは何か。
 結局、悟性とは同一性知性であり、それを超えた絶対的差異知性、絶対的差異共振知性がトランス・モダン「知性」と考えられる。
 しかしながら、このトランス・モダン「知性」(以下、TM知性)とは、実は、精神的知性である。だから、理性的知性なのである。精神的感性や身体的感性を包摂しているものでもある。
 これまで既述したように、カントやヘーゲル、さらには、ポスト・モダンは、悟性と「理性」を連続化させて考察しているのである。(カント哲学は、思うに、悟性と「理性」の連続性において、「批判」を行っていて、明確には、不連続性に達していないと思われる。)
 結局、悟性=同一性知性と不連続である精神知性、絶対的知性の確立がトランス・モダンの絶対的前提である。
 そう、悟性=同一性知性とは、自我知性であり、利己主義(エゴイズム)である。これが支配的になり、精神を抑圧・排除してしまっているのである。
 悟性と精神を不連続的に切断することで、トランス・モダン・チェンジが為されるのである。これは、悟性・近代知性を保持した差異知性(差異理性)である。否、そうだろうか。ここは微妙である。
 悟性と精神を不連続化させたとき、悟性はそのまま留まるのだろうか。おそらく、このとき、いわば、霊妙な作用がはたらくのではないだろうか。不連続化・絶対的差異化以前は、悟性と精神が混淆・混合・混成しているのである。
 しかし、不連続的切断が為されると、悟性と精神がいわば、共鳴・共振するようになるのではないだろうか。調和と言ってもいいだろう。
 例えば、「山」がある。これは、近代的悟性では、辞書で定義されているようなものである。しかるに、不連続的に切断されると、精神と「山」が差異共振するようになるのではないだろうか。即ち、「わたし」という精神があり、「山」という他者が存する。(そう、対象は他者となるのである。)
 「山」は悟性として、「山」であるが、同時に、「わたし」と共振する「山」である。精神的な「山」となるのである。言い換えると、物質的な「山」であり、且つ、精神的な「山」であり、両者は、即非的である。つまり、不連続化されると、即非化が生起すると考えられる。
 だから、近代的悟性は、トランス・モダン的悟性になるのである。言い換えると、即非「知性」となるのである。結局、即非「知性」に包括・包摂された悟性となると言えよう。差異共振悟性とも言えるし、即非悟性とも言えよう。
 そうすると、近代的悟性、同一性知性は「ゆらぐ」と言えよう。つまり、同一性の解体がそこにはあるのではないか。同一性の脱構築である。もはや、同一性は、仮象としか成立しないだろう。物質は仮象として存することになると考えられる。
 同一性、同一性主義の完全な解体がここに生起していると言えよう。絶対的なトランス近代である。アブソリュート・トランス・モダン(絶対的トランス・モダン)である。
 また、当然、自我、近代的自我(近代的「わたし」)の解体・崩壊である。同一性としての自我は絶対的に崩壊したのである。
 超越差異共振的な自己が誕生するのである。他者と共振する自己が生起するのである。そう、トランス・モダン的自己の生起である。(思うに、自他者・自他己という用語を造語してもいいだろう。)
 全ては、差異共振化される。差異共振的相転移を行う。絶対的トランス・モダン相転移現象である。科学・技術も、トランス・モダン・サイエンス/テクノロジーとなるし、経済もトランス・モダン・エコノミーとなる。トランス・モダン・キャピタリズムになる。一切合切がそうである。
 ということで、所期の問題は解明されたと考えられる。父権的同一性主義とは、近代的悟性=同一性知性の形成(近代合理主義・近代的自我・唯物論=悪魔性)に帰結したのであり、今や、父権的同一性主義=父権文明の解体・崩壊を意味するトランス・モダン文明へと転換する「新時代」になっているということである。
 父権文明(父権文化)、主に西洋文明に関係するが、またそれ以外の、東洋、その他の世界における一切合切のそれの崩壊・解体を意味するのである。トランス父権文明である。新母権文明である。


追記:現代とは、だから、百年単位のスケールの変化・変異ではなく、占星術文化期があてはまるような二千年単位(正確には、プラトン月の2140年である)の大変異であると思われる。通俗的であるが、双魚宮の時代が終焉して、宝瓶宮水瓶座)文化期に入りつつあると思われるのである。


参照:


悟性


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悟性(ごせい)とは英語 のUnderstanding、ドイツ語 のVerstandに対する西周 による訳語である。日本においては本来禅 の用語であった。英和辞典や独和辞典を参照しても分かるように、この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学 においては様々な哲学者 がそれぞれの定義 の下で用いる。

一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性 である。

ごく一般的な用法に近い「悟性」 [編集 ]

「思考の能力」などの意味で用いられる。この意味で用いる場合が最も多い。


カントの悟性論 [編集 ]

イマヌエル・カント の悟性論は『純粋理性批判 』で展開される。悟性は感性 と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象 を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性 や判断力 とともに上級認識能力のひとつであるとされる。人間の悟性には固有の形式があり、すべての可能な人間的認識に際してはこの形式が適用され、悟性による表象が可能になる。この固有の形式が、純粋悟性概念(カテゴリー)であって、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12の純粋悟性概念が指摘される。カント以前に、懐疑論 は人間の認識の確実性を問うたが、カントにおいては人間が外界の物を認識する際に発見する因果性は、純粋悟性概念によって保証されており、人間の認識の諸法則に沿うために確実なものである。これによってエウクレイデス の幾何学ニュートン の力学は、確実な認識である事が保証される。

一方、カテゴリーは悟性の対象となるもののみに当てはまる。すなわち感性的認識の対象とならず、単に思惟のみが可能な理性概念には当てはまらない。このためカントは従来の哲学が扱ってきた神 や存在 についての命題を否定する。しかし人間理性には形而上学への素質があり、本来当てはめることが出来ない対象へも悟性概念を適用しようとする。これは哲学を推進する主要な動機であり人間の本性として否定する事が出来ないが、しかしあくまでも悟性の誤用であって、人間は正しい悟性の使用を知らなければならないとされる。

ヘーゲルの悟性論 [編集 ]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル は『精神現象学』『大論理学』『小論理学』『精神哲学』において悟性論を展開している。ヘーゲルによれば、悟性は事物をばらばらに捉え、しかもそれらを固定化し、事物が運動 や矛盾 を含むものとして捉えられていない思考の能力とされる。その基盤となるのが、同一律 (AはAである)・矛盾律 (Aは非Aではない)・排中律 (AはAでも非Aでもないものはない)などを持つ形式論理学 である。

悟性の限界 [編集 ]

形式論理学的思考に基づく悟性的思考は雑多な諸現象の本質を捉えようとして、法則 を見出し、現象を引力と斥力 、時間 と空間 などといった単純なものに還元する。しかし、これらの対立は固定化され、悟性的思考が捉えたものは単なるデータの寄せ集めでしかなくなる。『精神現象学 』ではその後、悟性的意識は自己意識 へと進むが、『小論理学』などでは悟性から理性 への転換が示される。

補・長谷川宏訳『精神現象学』(作品社)におけるVerstand [編集 ]

長谷川宏 はVerstandを従来の「悟性」ではなく「科学的思考」もしくは「知性」などと訳している。『精神現象学』(A)意識「3力と悟性」(岩波他)はヘーゲルが悟性的思考の典型としてニュートン力学 を想定していることから、内容とタイトルとの整合性を持つものとして評価される一方、Verstandと科学 を混同していることやカント的悟性論をはじめとした従来の「悟性論」を無視していることなどに対して批判もされている。

関連項目 [編集 ]

* 理解

外部リンク [編集 ]

* 悟性の語について

執筆の途中です この「悟性」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )


参照2
4、それでもGMは・・・

ダメになる個人も企業も、同じような特徴があるようです。

「自分は悪くない」と思っている。

そして、「過去の栄光」に浸っている。

GMの経営者たちも、自分のおかれている立場が全然わかってい
ないのでした。



<それにもかかわらず昨秋、政府に支援を求める際にビッグスリ
ーの首脳は社用ジェット機でワシントンに乗り付ける傲慢(ごうま
ん)さをみせ、国民をあきれさせた。

GMのワゴナー前会長は「破綻は選択肢にない」と3月末に辞任
するまで強気だったが、ビッグスリーのシェアは4月、46%にまで
落ち込んだ。>(同上)
http://archive.mag2.com/0000012950/20090603235327000.html
ロシア政治経済ジャーナル