資本主義方程式:民主主義的資本主義:「量的資本」主義から「質的資

資本主義方程式:民主主義的資本主義:「量的資本」主義から「質的資本」主義への新黙示録


テーマ:トランス・モダン経済:差異共振資本経済


生産方程式は、自己認識方程式と共通であったが、果たして、市場方程式はどうなのだろうか。また、資本主義の競争と成長について考えたい。
 今は後者の方が特に重要だと思われるので、初めにそれに関して検討したい。
 資本主義生産は、利益をあげるために、経営を量的に合理化する。ここでは、量的価値が支配しているのである。貨幣による交換価値の数量が支配するのである。しかし、当然ながら、商品の質的価値が重要である。要は、量的価値と質的価値との相克が資本主義生産の力学に存していよう。量的価値を+i、質的価値を-iとすれば、やはり、資本主義方程式は、自己認識方程式となる。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。(追記:+iとは本来は主体的差異であるから、それを量的価値とするのは、そのままでは問題がある。しかし、正確には、量=同一性価値志向性と考えられるので、+iでも問題はないと言えよう。)
 ⇒+1が資本主義生産であり、+1は、いわゆる、利益となるだろう。そして、この+1の量的価値を追求しているのが、資本主義産業である。
 問題は、量的価値を低下させ、そして、質的価値の向上をさせることが企業の至上命令となることである(技術革新とは、両者に関係する)。量的価値を低下させるための「合理化」が為される。しかし、このとき、人件費・勤労者数を低減化し、勤労時間を増大させたり、勤労形態に生活保障を低下させたり、また、環境への配慮を無視したりすることがなされる傾向にある。
 つまり、競争において、量的価値を「合理化」することにおいて、資本主義の反社会・反自然的活動が問題となるのである。勤労者や環境や社会等も質的価値に入れられるので、結局、量的価値が質的価値を否定していくことになるのである。つまり、資本主義方程式が量主義化して、それが倒錯化するのである。即ち、(+i)*[-(-i)]⇒-1となる。つまり、これまで何度も述べてきた、同一性主義-1となるのである。
 そして、これが同一性資本主義であり、金融資本主義も同じである。
 確かに、単価を安価にすることは購買者にとってはありがたいことである。また、質的にすぐれた商品ならば、それもありがたいことである。
 結局、資本主義生産がもっている量的価値傾斜力学を否定はできないで、乗り越える必要があるのである。単純に言えば、質的価値を強化して、バランスをとることである。即ち、(+i)*{-[-(-i)]}⇒+1へと回帰すべきということになる。そう、否定の否定である。
 しかしながら、これでは、競争に負けるのではないのか。質的価値を強化すると、量的価値の「合理化」ができなくなるということになるだろう。確かにその通りである。ここに資本主義生産の最大の難問がある。
 ここで視点を変えて見ると、資本主義は資本主義のままとして、それと相補となるシステムを入れたらどうだろうかということである。民主主義とは、実は、質的価値を追求するものであり、資本主義の量的価値の追求の駆動性とは対蹠的である。そこで、(資本主義+i)*(民主主義-i)⇒+1という方程式が考えられよう。これは、経済*政治⇒社会共同体とでもなろう。
 このときの政治とは、資本主義のマイナスを取り除くものではなくてはならない。例えば、政治は資本主義経済に拠る貧富差の拡大に対して、利益を取り過ぎる企業から税金を取り、貧者に分配するような作用が必要となるだろう。これは、利益を取り過ぎる大都市から税金を取り、それを地方へと分配することが必要であるのと同様である。
 そうすると、民主主義的政治共同体形態が生まれてくることになるのではないだろうか。思うに、国家とは別に、民主主義的共同体の形成が必要なのではないだろか。ここで、諸民は学んだり、成長したりすることになるだろう。ここで、民主主義政治を形成する知性を磨くのである。民主主義政治は今のところは国家形態を取るだろう。しかし、母体は、民主主義的共同体である。これは、草の根共同体であり、国家的行政組織体ではない。
 とまれ、この民主主義共同体とは、トランス資本主義政治志向をもつと言える。何故なら、資本主義の量的価値力学を矯めて、質的価値との共振をそこへもたらすからである。つまり、量的価値に傾斜している資本主義を乗り越える作用をそれは行うことになるからである。
 これは、これまでの資本主義が父権的資本主義ならば、母権的資本主義と言えよう。しかしながら、実質は、トランス資本主義である。
 この民主主義的政治共同体に拠る政治が資本主義を矯正できれば、資本主義は完全にトランス資本主義、共同体的経済へと転換するだろう。
 ということで、資本主義内部から変革することはきわめて不可能と思われるので、外部である政治から資本主義の変容を目指すことが必要となるのである。だから、民主主義的資本主義である。資本主義は基本的には自由主義である。だから、民主主義的自由主義である。自由民主主義ではなく、民主自由主義、「民自党」になるべきである。
 とまれ、このトランス資本主義は、当然、資本主義を衰退させるだろう。しかしながら、量的資本主義から質的資本主義への変換とは言えるだろう。
 後で再考する。

追記1:減価通貨導入のことを既述したので、ここでは触れない。
 日本においては、ほとんど民主主義が形式主義的であり、政治=立法府での決定を実践すべき行政府が官僚統制主義によって支配されて、逆に政治=立法府を支配しているという反民主主義的状態になっている。
 民主主義的資本主義にするには、この点を解決しないといけないのは当然である。日本の資本主義のいちばん大きな問題点は、ここにある。つまり、自由主義以前なのである。国家資本主義的であるということである。
 この国家資本主義が、政官財の反自由主義、反民主主義的構造を形成しているのである。勿論、ここには、マスメディアや外部の謀略等が絡んでいて、植草氏が説く「悪徳ペンタゴン」の「全体主義」が形成されていると見ていいだろう。
 この国家資本主義的「全体主義」は、量的価値=同一性価値によって駆動されているのであり、その点、資本主義自体の問題と結びついているのである。つまり、多元複合的量的価値=同一性価値(父権的価値)問題がここにはあるのである。
 とまれ、一言で言えば、量=同一性価値の全体主義的複合系の解体が必要であるということになる。言い換えると、父権主義文明の解体ということになる。そして、その行為はトランス・モダン文明、差異共振的新母権文明への進化と言える。現代は、文明の大転換の過程にあるのである。歴史的には少なくとも二三千年のスパンの問題である。(PS理論は、この大進化のための理論と考えられるのであるが、少数の優れた人たちは、本理論の実質を自ずから感得されているのである。)もっとも、日常現実的には、個々の絶対的差異(特異性)への苦痛への忍耐を伴った武人的な忠誠が最重要ではある。
 思うに、政治を脱同一性化=差異化することがいちばん現実的であろう。その他、なんらかの私的な共同体の形成が考えられるが、持続可能ではないだろう。
 結局、新民主主義的革新(新維新)が必要であるが、それは、差異主義的なものでなくてはならない。だから、精神性(新霊性)がそこにはなくてはならないのである。言うならば、新神道的民主主義的新維新ということになろう。
 また、民主主義も、平等というよりは、個々の差異を重視した個民主主義となるだろう。個民主義である。
 最後に、資本主義の質=差異化の問題に関して一言触れると、差異民主主義的法律を立法府で構築すべきである。それによって、量=同一性主義に傾斜した資本主義を質=差異共振的資本主義へと変質・進化させることができるようになるだろう。近代資本主義からトランス・モダン資本主義への進化的変容である。

追記2:「資本主義」とは何かという問題があるが、それは、資本主義方程式が表現していると言えるのであり、それが、近代という時代においては、量=同一性価値へと傾斜して、反民主主義的資本主義となったのである。しかるに、トランス・モダンという新時代においては、質=差異価値が中心化されるのであり、同一性資本主義に換わって、差異資本主義が構築されると考えられる。後で再検討したい。

追記3:市場方程式については触れなかったが、それは、先に示唆したように、単純に、生産者*消費者⇒売買そして商品*貨幣⇒価格、等ということで、やはり、自己認識方程式となると考えられる。