マイクロヴァイタ論とPS理論:マイクロヴァイタとMedia Point

以下の、P. S. サーカーのマイクロヴァイタ論(直訳すれば、ミクロ生命論)は、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と通じるものがあると直感される。
 興味深いのは、マイクロヴァイタには、霊妙な部分と粗雑な部分があり、物質も同様であるという点である。
 直感では、マイクロヴァイタとPS理論のイデアは通じるものがあるのである。思うに、マイクロヴァイタは、Media Pointと考えるといいかもしれない。何故なら、次のように述べているからである。

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.


a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvitaの「銀の裏」が核心である。Media Pointの形成する即非性において、確かに、「銀の裏」が生じよう。つまり、イデア(差異)と物質(同一性)の境界、いわば、転換境界がサーカーの説く「銀の裏」となるだろう。ここで、D. H. ロレンスが、真の太陽は後ろ向きであると述べた言葉を想起する。真の太陽の背中が「銀の裏」である。
 不連続的差異論の時期に展開した考察から言えば、イデア(差異)と物質(同一性)の境界には、イデア面と物質面があるということになる。そして、「銀の裏」とは、的確に言えば、境界のイデア面となると考えられる。
 また興味深いのは、マクロヴァイタと物質には、霊妙な部分と粗雑な部分の二重性があるとサーカーが述べている点である。
 これをPS理論的に説明するなら、イデア自体、つまり、虚軸事象は霊妙な部分であり、Media Pointにおいては、粗雑な部分であり、また、物質においては、Media Pointは霊妙であり、その帰結は粗雑な部分である。
 この問題は不連続的差異論の展開の時期に行った諸検討に通じるものであるが、今、哲学の問題に関連して述べたい。
 問題は、ハイデガーを含めてポスト・モダン哲学(主に、ドゥルーズデリダ)をどう明確化するかである。この点については、かなりブレているのである。
 先に、ハイデガーの「存在」を同一性における無意識のMedia Pointの情態と言ったが、それではまだ、理論的には、不明瞭な部分があるのである。これを、マイクロヴァイタ論の視点を援用すると明確になるように思えるのである。
 結局、Media Point の虚軸面と実軸面を見ると、この問題がクリアになるのではないだろうか。即ち、端的に言えば、ハイデガー存在論は、Media Pointの実軸面を存在としているのであり、世界内存在とは、同一性意識であると考えられる。つまり、Media Point実軸面=「存在」から同一性志向性によって同一性意識=世界内存在(ないしいは、現存在)が形成されるということと考えられる。【因みに、フッサールについて言うと、実に、トランス・モダンの先駆者である。彼は、Media Pointの虚軸面に達したと考えられる。即ち、超越論的主観性とは、Media Pointの虚軸面を指していると考えられる。しかしながら、フッサールは同一性志向性(ノエシス)に囚われていたので、虚軸事象そのもの、即ち、差異共鳴性までには達しなかったと考えられるのである。
 もう少し説明する必要がある。以前述べたように、フッサールは同一性志向性の内に、超越性を含めてしまっていると考えられるのである。言い換えると、フッサールは、Media Pointの虚軸面と実軸面を混同しているということである。このために、実軸面の同一性が虚軸面の差異性を覆ってしまったと考えられるのである。だから、フッサールノエシスとは、差異共鳴性を含んでいるのである。しかしながら、それを明確には把握できなかったのである。】
 また、ドゥルーズの場合であるが、Media Pointの特異性・特異点の不連続性をまったく無視する誤謬に囚われていると考えられるのである。つまり、イデアと物質が連続化してしまい、ヘーゲル哲学のようになっているのである。同一性は普遍性となるのである。これは、政治的には、全体主義である。結局、ドゥルーズの思想には、Media Pointが不在なのであり、だから、内在性(同一性)の思想を説くことになったと考えられる。そう、唯物論である。
 次に、デリダの場合であるが、以前述べたが、やはり、ハイデガーの思想を踏襲していると考えられるのである。即ち、Media Pointの実軸面=「存在」と同一性(物質)との「差異」を差延として捉えて、脱構築主義を唱えたと考えられるのである。
 その「差異」=差延は、一種の不連続性があるのである。(しかしながら、十全なMedia Point自体の不連続性ではない。)即ち、Media Pointの実軸面がもつ不連続性があるということである。(つまり、非決定性である。)
 そして、後期デリダは、このMedia Pointの実軸面を取りだしたと言えよう。即ち、「すべての他者はまったき他者だ Tout. autre est tout autre」という言明が為されたのである。しかしながら、デリダは、フッサール現象学の超越性を彼の哲学の出発点において否定しているので、十全な Media Point、まったきMedia Point、純粋なMedia Pointには到達できなかったと考えれる。これで、ブレが解消され、斉合的に説明できたと考えられる。
 さて、最後に、やや飛躍的であるがプラトンの『ティマイオス』の有名な「コーラ」について、ここでの検討を踏まえて、端的に述べたい。
 「コーラ」とは、結局、十全なMedia Pointのことと考えられる。プラトンは、同一性志向性としての「イデア」を述べてはいるが、それの母体として、やや謎めいて、十全な、まったき、純粋な Media Pointを説いたと考えられるのである。これで、西洋哲学の謎が解明されたと言っても過言ではないだろう。
 

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Microvita exist in the world of ideas as well as in the crude world. That which exists purely in the world of ideas is beyond laboratory research, but in the latter case research can be done in physical, chemical and biological laboratories. Though this microvita research is to be done within the inner mind, inside idea, inside spirit, tests are to be started in physical laboratories.

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.
21 May 1989, Calcutta

The initial stage of matter is beyond perception. It falls into the category of the subtle realm of science. Most of the atomic research done until now has been done on the basis of the guessing method, because different stages of the atom, and different constituent parts of the atom, do not come under direct perception―they come within the arena of human concept. That is why microvita research is to be done first in the mental laboratory.

Both atoms and microvita have subtler and cruder portions. The portion which is closer to idea is subtler and the portion which is closer to matter is cruder. For studying the cruder portions of both atoms and microvita, physical laboratories are necessary. For studying the subtler aspects of both, spiritual practices are necessary. The portion of atoms which have a close proximity to idea―that is, the subtler portion of atoms―is understood by spiritual practices. This part cannot be understood in physical laboratories only.
http://www.ru.org/10-2Sarkar.htm
Renaissance Universal