Media Pointからの同一性主義狂気分析:MP実軸面とMP虚軸面の不連続

Media Pointからの同一性主義狂気分析:MP実軸面とMP虚軸面の不連続性:超次元の出現


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


先に、ドゥルーズ哲学批判において、感情主義による差異と同一性の連続化=癒着を見たが、この視点を同一性主義狂気に適用したい。
 端的に言えば、同一性主義狂気におけるMedia Pointの様相が核心である。
 Media Point(以下、MP)の実軸面(実軸相)から同一性が発生し、同一性自己意識(自我)が生まれる。だから、同一性自己意識の基点は、MPの実軸面(以下、実面)にあると言える。これは、また、言語構造と言えよう。(思うに、ラカンの有名な「無意識は言語のように構造化されている」という言葉は、ここから理解されるべきである。MP実面が精神分析の無意識であり、また、さらには、ハイデガーの存在なのである。これは、きわめて、重要な事柄である。)
 MP実面は、差異と同一性との境界であり、端的に言えば、壁である。ここにおいて、差異が抑圧・排除・隠蔽されているのである。
 しかしながら、必然(自然じねん)的に、MP虚軸面(以下、MP虚面)が開かれて、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーが流入する事態が発生する。この力学の様相ないしは仕組みを精緻化する必要がある。
 初めに、つまり、第一1/4回転においては、MPは実面だけが賦活されいて、虚面は潜在化していると言えよう。言い換えると、実面が表面化して、虚面が裏面化していると言えよう。
 しかし、第二1/4回転においては、虚面が賦活されて、実面には、新たな賦活は行なわれないと考えられる。つまり、実面はただ維持のみのエネルギーが放出されると思われる。いわば、現状維持である。
 いったい、虚面の賦活化とは、様相的に、システム的にどういうことなのだろうか。
 同一性自己意識を光・昼とすれば、それは、闇・夜の領域となるだろう。未知の領域である。「不可解な」領域である。そう、アポロに対するディオニュソスである。これは比喩に過ぎない。
 いったい、MP実面に対して、MP虚面が開かれるというのは、「空間」的にどういうことなのか。理知的には、四次元ないしは五次元の開化であるが、より「具体的に」に捉えたいのである。
 端的に、MP実面はどうなるのか。MP実面とは別にMP虚面が開化するのか。つまり、MP実面の周囲(周縁)にMP虚面が発生するのか。
 直観で言えば、端的に、MP実面とはまったく異質な、不連続なMP虚面が発生するのであり、同一性自己意識は、まったくそれを理解不可能なのである。同一性合理主義(近代合理主義)からは、非合理主義に見えるものなのである。
 そう、正に、即非空間がそこに出現すると言えるのではないのか。高次元・超次元の出現でもある。そう、三次元的同一性自己意識にとって、四次元的「意識」の出現は未知以外のなにものでもないだろう。怪しむだろう。「異世界」、「異界」、異次元である。しかし、それは、正確に、精神・霊的次元と言えるのである。PS理論的には、イデア次元である。
 とまれ、不連続な次元の出現であるから、単に、MP実面の周縁に生じるということではないのである。
 やはり、MP実面を超越した領域にMP虚面が出現すると考えることができる。例えば、二次元(平面)世界の住人が三次元(立体)世界の住人(「宇宙人」)に出会ったようなものであり、三次元世界の住人を二次元的にスライスした様態で観察することになろう。それは、連続化である。
 そう、端的に、同一性自己意識(物質主義者)にとって、これは、恐ろしいものであり、それを隠蔽するに越したことはないだろう。ここに抑圧・排除が発生すると言えよう。
 MP虚面は影ではないのである。影は、同一性の対称性によって生じる対峙的存在に過ぎないのである。
 わかりやすく言えば、意識空間に穴が出現するのである。そして、同一性主義にこだわる限り、穴は空虚のまま、虚無のままである。つまり、ニヒリズムを形成すると言えよう。(ニーチェハイデガー三島由紀夫ニヒリズムを参照。)思うに、イデオロギーはこの穴を満たそうとする同一性主義からの一種信仰的行為と言えよう。
 とまれ、MP虚面の出現に対して、同一性自己意識は抑圧・排除・隠蔽行為を行うと考えられる。同一性主義が発生するのである。つまり、同一性自己を自己目的化するのである。そのため、MP虚面=「差異」への否定が生起するのである。これが反動性・暴力性である(アーリマン暴力だろう。)
 これは、実は他者への否定そのものなのであり、同一性自己中心主義(自我主義)を形成するのである。
 では、狂気はどういうことなのだろうか。それは端的に他者否定(精神・霊性否定)に存すると言える。意識空間において生起する真正な他者という事象を否定するであるから、当然、狂気なのである。正当に「存する」ものを認めず、否定するというのは、非科学的であり、非理性的であり、当然、狂気なのである。【これで、持論の「近代的自我(近代合理主義)は狂気である」というテーゼが証明されたと言えよう。言い換えると、唯物的意識や唯物科学主義は狂気であるということになる。これは悪魔論から言うと、アーリマン暴力と言えよう。】
 さらに展開すると、高次元の他者を否定・抑圧・排除・隠蔽する同一性主義自己意識であるが、これは反動様式であり、高次元の他者からの逆襲を被るのである。これが、狂気衝動、狂気暴発なのである。
 何故なら、先に述べたように、高次元の他者のエネルギー、差異共鳴エネルギーが主導・能動的であるからであり、それに逆らうことは、反作用を受けるからであり、この反作用=反動が衝動・暴発・発作となるからである。言い換えると、狂気・暴力衝動が発生するのである。
 また、うつ病等の心病(語弊があるので、精神病という用語は使用せず、心病という造語を使用する)は、この点から、解明される。それは、高次元的他者、差異共鳴エネルギー、精神・霊性エネルギーを拒絶しているので、端的に、生命・生産・創造エネルギーが枯渇するということを意味すると考えられるので、心病、とりわけ、うつ病を発症すると考えられるのである。
 だから、心病を治癒するには、高次元エネルギーを受容する意識の「改造」が必要なのである。伝統的には、禅等がこのようなものであったが、戦後近代合理主義で伝統が稀薄になってしまっている。
 端的に、どうやって、超越エネルギーを受容する意識を形成するのだろうか。基本的には、トランス・モダンの発想が必要である。モダンの成果を乗り越える形の超越化なのである。この点を間違えると、オウム真理教のようなカルトになるのである。
 私見では、ルドルフ・シュタイナーの霊的修行は、いちおう、トランス・モダン的様式ではあるが、あまりに、超越性に傾斜しているので、現実的ではないと思うし、根本的に、問題があると思うが、その点はいつか明示したい。
 諸方法があるが、仏典を読むのもいいし、良質な哲学書を読むことがいいと思う。何故なら、知性・理性から、超越エネルギーを形成する鍛練になるからである。
 しかし、思うに、是と言って、良質な哲学書とは何だろうか。フッサールの『デカルト省察』がいいのかもしれない。あるいは、プラトンの書がいいかもしれない。あるいは、ドゥルーズの『差異と反復』も、連続性批判の視点から読めば、いいだろう。
 エクセントリックではあるが、以下のシュタイナーの書は超越的自己の形成のためのマニュアルとなるだろう。ただし、薔薇十字瞑想法は薦めないが。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌
(翻訳)  
 

 また、小説家であったD. H. ロレンスの『黙示録論』も薦めたい。これは、西欧人が書いたユダヤキリスト教批判の大傑作であり、東洋文化への回帰を説いているものである。
黙示録論 (ちくま学芸文庫) (文庫)
D・H ロレンス (著), 福田 恆存 (翻訳)


また、未読であるが、以下が経済にも関係するのでいいかもしれない。
P.R.サーカーのことば (単行本)
シュリ・プラバート・ランジャン サーカー (著), Shrii Prabhat Ranjan Sarkar (原著), 石戸谷 滋 (翻訳)