知の問題:直感知と言語自我的認識:直感知の精神性と言語的同一性の

知の問題:直感知と言語自我的認識:直感知の精神性と言語的同一性の物質性の不連続性


テーマ:哲学


先に触れたプルタルコスの『エジプト神話・・・』の中で、オシリスは知性であると述べられていたのが、気になったので、新たに知とは何か検討したい。
 私の思考はほとんど直感的論理的思考である。単に直感だけなら、占いと同じである。直感による想念を論理的に秩序整合化するのである。
 では、直感とは何か、である。これは、以前に触れたことがあるが、今、新たに考察してみたい。
 プルタルコスは、オシリスは光であり、一元的知であるというようなことを述べていた。閃き(ひらめき)というものだろうし、正に、直感や直観である。イデアもこれに関係していると思う。
 例えば、私が小泉元首相が発言している場面を観たとき、胡散臭く、誤魔化している、即ち、ペテン師、詐欺師であると直感できたのであるが、その直感知はどういうものなのか。
 PS理論に拠ると、超越的極性差異の共鳴によって、光が生まれる。この光が知であり、意識であろう。心眼の光でもある。
 その心眼の内的な光(内光、心光、魂光)に対して、外界から、対象の「光」がやってきて、内光の感覚知性(知覚)の「フィルム」に映される。逆に言うと、内光が外界に投影されるのだろう。
 このとき、内光の調和共鳴様態に対して、外界の「光」(外光)が、不調和な、ないしは、不快な振動・波動を与えるときがあるのである。それが、小泉元首相の外光である。もっとも、このときは、単に、光だけでなく、言葉の調子も大事である。
 結局、外的な視聴覚が、内的な視聴覚の調和に対して、不調和性を喚起したのである。それで、私は、直感的に、胡散臭いと感じたのである。
 すると、根本的に、内的な調和的知覚が存するのである。そして、これが、プルタルコスの言うオシリスの知ではないだろうか。
 そうすると、PS理論の自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、先に述べたように、イシス⇒オシリスであり、+1=オシリスとは直感知ないしは直観知であるということになる。
 この考え方は、近代合理主義知性とはまったく異質なものである。では、補足的に、近代合理主義的知性とは何かを考えたい。つまり、PS理論ではどう表記できるのか、である。
 外界からの光は情報をもっている。例えば、外界に、桜の木があるとしよう。それを知覚認識するとき、やはり、基本は、内光に即して、外光を知覚すると言えよう。基本は、内光と外光の共鳴調和であろう。そして、桜の木が認識されるのである。問題は、言語認識である。視覚において、桜の木はそれとして認識されるが、まだ、言語認識されていない。外界の対象に名がないのである。
 名の欠乏は、心的欲望となるだろう。つまり、名ないしは言語への心的欲望があるのである。これは、一体、何か。あるいは、言語への意志、乃至は、言語への志向性がある。これは、何か。
 ここでは、思考実験の段階であるが、思うに、内光の諸振動数があるのであり、その多様な光に対する分節作用として言語が生じるのではないだろうか。
 しかしながら、言語は、内光よりも、外光に即していると考えられる。
 今、直感では言えば、他者と言語が関係しているのではないだろうかと思う。思うに、直感知の先端に言語が生じるのではないだろうか。直感知は当然、外界に対応して、多様である。その多様性の分節化として、言語が発生するのではないのか。
 とまれ、別の思考実験をしよう。内光と外光の共鳴様態があり、それが、直感知に反映されるだろう。そのとき、言語化、つまり、音声言語化とは、身体化ではないだろうか。直感知は、精神的ないしは、イデア的である。正確に言えば、Media Point的である。これを、明確に物質化ないしは身体化するのが、音声言語ではないだろうか。音声身体化によって、直感知がいわば、現実化するのではないだろうか。言い換えると、直感知身体としての言語ではないだろうか。音声によって、身体的分節化が形成されるということではないだろうか。
 いわば、物質的同一性としての音声言語があるのではないだろうか。一般に文字言語に物質性を見る傾向があると思うが、音声言語自体に元来そのような意味があるのではないだろうか。
 そう考えて、近代合理主義知性の問題に返ると、それは、音声言語を含めた言語の物質的同一性を中心化した知性ではないのかということである。問題は、それが、物質主義によって規定されていることである。
 そうならば、内光と外光との調和共振という直感知と物質的同一性主義=近代合理主義知性との関係はどういうものだろうか。
 以上の検討では、直感知の身体化=物質的同一性化としての言語分節化があり、それが、近代合理主義知性になったと敷延されよう。
 言い換えると、直感知は、同一性を志向するが、それが、言語化によって明確になるが、それは、同時に、物質的同一性化であるということである。つまり、直感知から言語知への転換には、不連続性があるということになる。
 直感知においては、あくまで、精神性が基本であるが、言語知においては、物質的形式化がなされるということと考えられる。
 この精神性と言語性との不連続性が、近代主義においては、無視されて、結局、連続化されてしまったのである。つまり、精神と言語とが連続的に同一性化されてしまい、結局、精神を喪失することになったと考えられる。簡単に言えば、世俗主義化である。
 今はここで留める。