同一性とは何か:実体か、又は、マーヤーか:「わたし」であり、且つ

同一性とは何か:実体か、又は、マーヤーか:「わたし」であり、且つ「非わたし」である:二元相補性


テーマ:差異と同一性


哲学的に、これが今、いちばんの問題である。もっとも、これまで、この点に関しては、それなりに考察はしてきた。
 端的に言えば、「わたし」とは何か、という問題なのである。現代の経済の危急存亡の期において、なんと呑気なことを考えられるかもしれないが、これは、哲学的に、つまり、本質的に、根本的な問題なのである。そう、第一級の問題なのである。否、超一級の問題である。今は、予見を、直感的に述べる。
 「わたし」は、確かに、今は、存在し、こうして、パソコンのキーボードを打って書いている。これは、疑うことができない。「コギト・エルゴ・スム」である。
 しかし、単純に考えれば、百年先には、「わたし」はもはや、この世にいないのである。だから、果たして、「わたし」は存在しているのか、疑問ではある。今の「わたし」とは何か、ということになる。
 とまれ、同一性の問題を考察しよう。今、「わたし」が柿を食べているとしよう。この柿を食べている「わたし」は時間上の「わたし」であり、連続的な「わたし」である。
 問題は、根本の「わたし」である。それは何か。具体的に言えば、確かに、今、「わたし」は存する。これは、疑えないだろう。では、この「わたし」は何処から生まれるのか。デリダ的に言えば、差延ということになるだろう。それは、それで正しいだろうし、そのとき、「わたし」は実体としての存在しないのである。
 そう、ここがポイントである。差延としての「わたし」である。あるは、差異としての「わたし」である。言い換えると、同一性=「わたし」とは、虚構=仮象ということであり、本体は、差延、差異であるということである。これは、PS理論の説くところでもある。本体は、Media Point であり、その志向性の帰結に同一性が生起するということである。
 かつて、Kaisetsu氏が指摘したエネルギー保存則からすると、同一性に対して、マイナス同一性が存すると考えられる。それにより、同一性、プラス同一性が崩壊するのである。思うに、マイナス同一性志向性とは、Media Pointへの回帰ではないだろうか。ゼロへの回帰ではない。
 この視点から、「わたし」=同一性を考えるとどうだろうか。端的に、「わたし」は在りつつ、同時に、脱「わたし」へと生成する過程ではないだろうか。即ち、「わたし」は同時に、脱「わたし」であるということになるだろう。
 ここで、言えることは、「わたし」=同一性は、同時に、非「わたし」=非同一性であるということである。ということは、これまで指摘したように、「わたし」とは、存在しつつ、同時に、非存在であるということである。
 存在し、且つ、非存在であるということが、「わたし」の様態であると言えよう。だから、「わたし」は、存在し、且つ、非存在であるという即非様態にあるということになる。ということで、同一性を「わたし」と捉えるならば、それは、存在しつつ、非存在であるということになる。
 ならば、これをマーヤー(仮象)と呼べるだろうか。もし、変化しないものを実体とするなら、これは、マーヤーである。そう、「わたし」は同時に、「非わたし」なのである。「わたし」を絶対化ないしは実体化するのは、完全に誤謬である。
 そうすると、問題は、社会上の問題である。「わたし」が犯罪を冒したとき、その責任はどうなるのか。それは、やはり、「わたし」の責任であり、また、同時に、「非わたし」の責任である。解答は、二元相補的となるだろう。今はここで留める。