連続・同一性の指向性(+エネルギー)は身体的成長力ではないのか:

連続・同一性の指向性(+エネルギー)は身体的成長力ではないのか:極性エネルギーの反転と近代的反動


連続・同一性指向性=プラス・エネルギーは、身体的成長力で、不連続的差異指向性=マイナス・エネルギーは、身体的老化力ではないだろうか。そして、精神とは、後者がもたらすものではないだろか。
 しかしながら、メディア界のエネルギー(これは、極性エネルギーであり、物資エネルギーではない。これについて、後で検討。)の変動に対して、自我が、反動的であると、なんらかの病気になるだろう。即ち、極性エネルギー(メディア・エネルギーと呼ぼうか)が、プラスからマイナスに転じたにもかかわらず、ある自我が、プラス様態、つまり、連続・同一性様態に固執するなら、それは、精神病理になると考えられるのである。また、その自我は、創造力が枯渇し、知的精神的に衰退するのでもあると考えられる。(これは、ユングが中年の危機と呼んだことと、関係するだろう。)
 マイナス・エネルギーの賦活化に対して、現代の唯物科学では、まったく、為す術が無いは、ここに起因するだろう。
 このマイナス・エネルギー=不連続的差異指向性(おそらく、イデア界への回帰指向性)に対する反動精神病理について、ここで、繰り返すと、賦活されたマイナス・エネルギーを否定・排除・隠蔽しようとするのであるが、その抑圧自体が、マイナス・エネルギーの反作用を受けているのであるが、その反作用が、非合理な衝動、即ち、狂気・暴力になると考えられるのである。存在しているマイナス・エネルギー(イデア界への回帰指向性)を否定しようとすれば、その反作用・反動は、非合理主義となるしかないだろう。なぜなら、存在しているマイナス・エネルギーを、合理的に、知的に、意識的に、理解しようとはせずに、連続・同一性合理主義に則さないことで、否定するからである。無理解の、傲慢な衝動がここには生じるのである。 
 ここの心的問題については、既述済みだが、ここで、修正的に言うと、この反動暴力・狂気が発生の原因については、差異の質の相違、即ち、粗差異か微差異かの相違が第一の根因であると述べたが、先に述べたように複合的原因を考えた方が適切のように思える。即ち、


1)粗差異であること
2)近代的自我・近代合理主義・唯物科学による、微差異教養文化(精神文化・精神知性)の死滅


この二者が主原因であると思えるのである(もっとも、他にも、副原因があるが)。この二つの原因が複合化して、差異に対する反動暴力・狂気が発動していると考えられるのである。


p.s. より根源的に考えると、唯物科学を生んだものは何であったのかという問題がある。直感では、デカルトの合理主義に問題があるのである。あいまいなものを否定し、排除するその合理主義力学に根因があるように思えるのである。精神性とは、唯物知性から見たら「あいまい」である。「あやふや」に思える。「いい加減」に思える。近代科学は、周知のように、確固たる、反復検証できる物質的証明を根拠として発展したのである。このデカルト合理主義(デカルトのコギトとは別の問題である)が、原因のように思えるのである。
 では、デカルトのこの合理主義の意志とは何なのだろうか。確かに、絶対的明晰さへの意志である。そう、これは、簡単に言えば、連続・同一性=プラス・エネルギーの指向性そのものだろう。連続・同一性の意志である。差異に対する否定である。そう、連続・同一性自我・近代的自我の意志である。
 どうも、ここに、途轍も無い事態があると思う。このデカルト的意志によって、世界は、唯物科学・技術主義となったのであるから。そう、ここには、真理への意志がある。誤謬に対する徹底的排除の意志がある。真理への自我意志と言ってもいい。これは、換言すると、ある事柄・事物は、Aであり、〜Aではない。つまり、ある事は、Aであるか、あるいは、非Aであるかのどちらかということである。排中律アリストテレス論理学である。これは、現象形式論理学である。これが、思うに、デカルト的合理主義を裏付けていると考えられる。
 つまり、唯物科学の根因は、アリストテレス論理学・現象形式論理学であるということになるのである。この、いわば、形式論理学イデオロギーが近代科学・技術、唯物科学・技術の根底にあるということになる。
 では、さらに疑問を突き詰めると、何故、このイデオロギーに染まるのかである。それは、やはり、真理への意志である。知への意志である。ならば、なぜ、真理を意志するのか。換言すると、認識衝動である。ファウスト衝動と文学・思想の世界では言っているが。これは、結局、連続・同一性指向性のことであろう。ある現象に対して、連続・同一性指向性は、それを、当然、連続・同一性化するのである。それが、認識衝動である。結局、連続・同一性認識指向性が、この場合の、真理への意志と言えよう。プラス・エネルギーである連続・同一性指向性の認識衝動が、デカルト的合理主義の基盤・土台・根底にあるということになった。考えれば、連続・同一性志向性は、当然、二項対立の志向性であり、差異を徹底的に否定・排除・隠蔽するのである。「魔女狩り」である。「異端審問」である。西洋文明とは、ユダヤキリスト教文明とは、連続・同一性志向性の、超悪魔的文明なのである。