「わたし」という絶対的単独性と多元的差異共振の世界

今は、簡単に触れるが、「わたし」は、不連続的差異であり、まったく単独的である。ライプニッツモナドは、窓がないが、不連続的差異には、窓はあるが、絶対的単独性である。窓は、零度差異共振性である。そして、この共振性は、コスモスを形成する。しかし、この共振コスモスは、連続体ではないことに注意しないといけない。これまでの、ほとんどの思想が、これを連続体としてきたから。
 とまれ、私が問題にしたいのは、この不連続的差異・絶対的単独性である「わたし」の事相である。差異共振界・メディア界において、「わたし」は、差異共振シナジーであるコスモスである。しかし、このコスモスは、無数の不連続的差異・絶対的単独性の共振シナジー事相である。つまり、差異共振共立しているコスモスとしての「わたし」である。一つの不連続的差異でありつつ、他の不連続的差異と共振共立し、コスモスとなっている「わたし」である。だから、多即「一」、「一」即多と言える。しかし、気をつけるべきは、「一」とは、一元論ではないことだ。これは、共振シナジーである。おそらく、この点に、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の真の独創性であると思えるのである。


p.s. ウスペンスキーが、高次元世界の「論理」の表現に苦労しているが、ウスペンスキーが説こうとしている高次元論理とは、プラトニック・シナジー理論の独壇場となるのではないだろうか。後で、『ターシャム・オルガヌム』から引用したい。