同一性自我狂気の分析:弱差異同一性自我西洋文明と強差異自我コスモ

同一性自我狂気の分析:弱差異同一性自我西洋文明と強差異自我コスモス新文明の「ハルマゲドン」
テーマ:差異と同一性


先に、「ある狂人の分析:現代日本の機械・メカニズム/同一性自我狂気は、どこから発生したのか 」
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913
を提出したが、ここで、整理してみたい。
 先の考察のポイントを箇条書きしよう。


1)機械・メカニズム/同一性自我狂気シンドローム:近代合理主義の帰結なのである。唯物論的科学主義の帰結
2)彼の差異はもともと劣弱な差異、弱差異であった
3)同一性感情・欲望の異常な嫉妬心が、怪奇性を生んでいる
4)連続・同一性指向性=プラス・エネルギーが否定・排除・暴力的である:二項対立
5)同一性自我の一般的否定相と、反動的否定相が重なっている


補足して、整理すると、


A)弱差異であること:過剰な同一性:異常な嫉妬心

B)連続・同一性の二項対立

C)戦後日本の唯物科学思想環境:差異的教養・精神文化の死滅

D)「ポストモダン」状況による、差異の賦活化に対する、同一性自我の反動化:狂気化・精神病化


少なくとも、以上の四点の複合型として、「ある狂人」の同一性的狂暴・凶暴性を分析・解明できるだろう。
 ここで、内因である弱差異について、少し補足しよう。この原因は、自然・宇宙の必然性と言うしかないだろう。根源的「差別」・「不平等」があるのである。シェイクスピアリア王の三姉妹の長女と次女(ゴネリルとリーガン)の冷酷無惨さと末娘(コーディリア)のやさしさについて、劇中で、どうして、このような違いが生まれたのかという哲学的問いを発していた。これは、エドガーとエドマンドの差異と言ってもいい。二つの自然の問題である。
 シェイクスピアは鋭敏に、差異の優劣の存在を認識していたのである。それも、近代の発生期において。近代は、連続・同一性自我が発生する時期であり、弱差異の人間にとっては好都合であったのである。ニーチェ流に言えば、「賎民」の時代なのである。あるいは、末人の時代である。何かの終わりである。
 近代の問題点は、ルネサンスは差異の発生でありながら、宗教改革は反動的な同一性の強化であったことである。このルネサンスプロテスタンティズムの二重性を認識しないといけない。そして、差異の優劣の違いによって、この二重性が、能動化するのか、反動化するのか、分かれるのである。弱差異の人間は反動化し、強差異の人間は能動化するのである。社会・政治的に言えば、戦争か平和である。しかしながら、近代は、弱差異の人間・精神的劣者が主導的であったのである。
 この問題に関して、ニーチェは、永遠回帰の思想を提起した。ニーチェは、超越的次元の問題、イデア論の問題を提起したのである。そして、ロレンスはコスモスを、ウスペンスキーは、高次元思想を説いたのであった。
 現代は、「黙示録」的終末論的時代である。ポスト西洋文明のエポックである。西洋近代において、否定・排除・隠蔽された、差異・コスモス・超越高次元の知が、近代主義を超克するエポックである。「黙示録」的戦争が行われているのである、現在。弱差異同一性自我機械文明と強差異特異性自我コスモス新文明との戦争である。
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ある狂人の分析:現代日本の機械・メカニズム/同一性自我狂気は、どこから発生したのか


テーマ:ニッポン亡国の凶相


私は、ある狂人を念頭において、分析しようとしている。傲岸不遜で無礼ではあるが、彼は、言葉の形容では足りない、言葉では言い尽くせない異常性・狂気をもっている。それを、なんとか、概念・観念化しようとしているのである。
 普通の人は、自我感情・欲望を制御して、日常生活を送るが、彼の場合、それが、いわば、むき出しである。他者への精神的感情、共感性、倫理観が、無である。だから、通常の言葉では、形容し切れないのである。言葉は確かに、同一性ではあるが、これは、差異と差異との関係を表現する指向があるだろう。つまり、他者関係表現の側面をもつ。しかるに、彼には、他者は存在しないのである。差異は完全に同一性化されているのである(細かく言えば、実は、差異は無意識化されているのであるが)。そう、世界は、同一性の世界である。彼の連続・同一性自我が中心となっているのである。同一性一色の世界なのである。ここでは、言葉は、いわば、無力化するのである。完全な同一性暴力があるのである。絶対主義・独裁主義・全体主義と呼ぶこともできよう。しかし、政治権力をもっているわけではないから、そう呼ぶのは、大袈裟である。
 とまれ、彼に対しては、言葉は無力となり、いわば、沈黙を余儀なくされるのである。邪道・悪道・外道ではある。
 そこで、私は、ここで、なんとか分析を展開しようとしているのだが、思ったのは、機械・メカニズム的狂気と呼ぶのが的確なのではないかということである。完全な同一性、二項対立、0と1、正誤二元論、等の世界なのであるから。アリストテレス的論理の徹底である。ここには、差異が完全排除されているのである。精神の排除である。機械的知性だけである。そう、同一性狂気と呼ぶこともできよう。
 困るのは、彼には、差異・他者が存在しないので、対話ができないことである。思い込み、決めつけ、独断・独善・妄想の世界なのである。パラノイアあるいは、妄想的人格障害だろうか。
 私は、これは、彼だけの狂気ではなくて、現代日本の社会・精神病理症候群ではないかと思うのである。おそらく、彼に極端に発現してはいるとは思う。考えれば、小泉首相も同一性狂気の類型に属する。ここには、他者・差異・精神・倫理・仁義の侮蔑・蹂躙・無視がある。悪魔的とも言える(後で、悪魔について議論したい)。
 具体的に言えば、嘲り・憎しみ・反感・嫌悪感等が剥き出しになっているのである。幼児的精神ではある。スピノザ的に言えば、歓喜ではなくて、悲哀の感情が基盤になっているのである。ともかく、否定的感情が基盤になっているのである。社会的精神が完全欠落しているのである。非道・無道な自我である。
 この機械・メカニズム/同一性自我狂気シンドロームであるが、これは、哲学的には、西欧近代主義の帰結と言えるだろう。つまり、近代合理主義の帰結なのである。唯物論的科学主義の帰結なのである。悪魔たちを生んだのである。
 最後に、私が問題にしたいのは、精神は、共感性は、歓喜は、仁義はどこに行ってしまったのかということである。これは、彼を見ていると、強く思うのである。
 強い憎悪・侮蔑・傲慢・妄想(自己優越)・攻撃性があるが、これは、ある意味で、競争心の歪みである。常に、ライバルと自我を比べて、勝ち誇りたいという歪んだ競争心があるのだ。とまれ、やはり、一言で言えば、同一性欲望である。個・差異・特異性としての自我の完全喪失なのである。
 では、精神・共感性・歓喜・仁義・個・差異はどこに行ったのかという問題に答えてみよう。一番簡単な答えは、彼の差異はもともと劣弱な差異、弱差異であったのであり、もともと、それらの心的能力はなかったということである。この点は否定できないが、しかし、社会学的な解答ではない。
 社会学的解答・解明は、以前既述したことに存すると思うのである。即ち、戦後唯物論・拝金・実用主義的近代合理主義である。これは、精神的主観性の独立・自律性を否定・侮蔑する思想である。簡単に言えば、精神の侮蔑である。唯物主義、唯物科学主義、物質的合理主義である。これが、彼の主観性を占めていると思うのである。この戦後日本の唯物思想という知的環境に、彼は染まってしまって(マインド・コントロール)、精神性を完全に否定・排除・隠蔽して、精神のブラックホール状態になっているということだと思うのである。
 結局、機械・メカニズム/同一性自我狂気の原因は、彼の内因もあるが、社会的要因は、戦後日本社会の唯物科学思想環境にあるということである。
 
 
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■内的差異を否定する同一性狂気

付け加えると、内的他者である差異自我の否定の問題がある。つまり、自己否定がここにはあるのである。一種、自殺的行為でもある。差異にこそ、真の自我があるからである。
 なにか、ここには、とても異様な事態がある。そう、怪奇というべき事態である。そう、彼に感じるのは、怪奇な傲慢さである。単に、傲慢狂気ではなくて、怪奇な傲慢さなのである。あるいは、怪奇な、異常な、病的な競争心・闘争心・攻撃性である。この怪奇というのが、ポイントだと思う。まぁ、狂気とも言えるのであるが。そう、異常な嫉みでもあるのである。そう、嫉妬心である。我慢できない嫉妬心が、怪奇な傲慢な闘争心になっているのである。だから、女性的な感性でもあるのである。そう、彼には、女性性を感じるのである。非常に父権的闘争心の陰には、女性的嫉妬心があるのである。だから、一種性的同一性障害に入るのかもしれない。
 とまれ、怪奇を生んでいるものがこれで判明したようだ。同一性感情・欲望の異常な嫉妬心が、怪奇性を生んでいると思う。つまり、嫉妬心が狂気化しているのである。狂気の嫉妬心である。
renshi (2006-08-26 01:15:38)

■差異と同一性の分離、そして、反動化する同一性

同一性による差異の排除は、自他への暴力である。この差異排除の否定的行為に、憎悪・嫌悪、侮蔑、等が存しているだろう。
問題は、この差異自我と同一性自我との関係である。ここで、不連続的差異論から見ると、メディア界では、差異が共振している。しかし、極性があって、プラス化したり、マイナス化したりする。即ち、連続・同一性の志向をもったり、不連続性の志向をもったりする。つまり、メディア界においては、自我は、差異と同一性(仮象)の二重性をもっていると言える。しかし、これは、共立している二重性であり、分化してはいない。
 しかし、プラス・エネルギーによって、連続・同一性の志向が主導的になると、差異は同一性の指向性に否定されて、差異と同一性が分離するようになる。つまり、自我が、差異自我と同一性自我とに分裂するようになると言えよう。そして、前者は、潜在化(無意識化)すると言えよう。そう、この連続・同一性指向性=プラス・エネルギーが否定・排除的である。つまり、連続・同一性志向性とは、暴力的なものであるということになる。二項対立的自我を形成すると言えよう。
 ある狂人にあるのは、この力である。普通、成長し経験を積むと、差異を肯定するようになるのであるが、彼は、差異を否定したままである。つまり、幼児性があると言えよう。また、さらに、成人でああるから、マイナス・エネルギーが発動していて、差異が賦活されていると考えられるのである。それにもかかわらず、彼は、差異を強く否定しているのである。つまり、ここでは、同一性が反動的に、差異を否定しているのがわかるのである。そう、だから、彼の場合、同一性自我の一般的否定相と、反動的否定相が重なっていると考えられるのである。これが、怪奇・狂気を生んでいると考えられるのである。
 ここのポイントは、この賦活された差異を否定する同一性の狂気にある。この点は、先に十分に述べたので、ここでは説明しないが、彼の徹底した差異の排除は、差異の劣弱さにあると思うのである。もともと、優れた差異があれば、否定されても、意識に顕在する力をもっていると考えられるのである。
renshi (2006-08-26 08:10:47)