死のエネルギー(死の欲動)の構造について:ポストモダン・メディア

死のエネルギー(死の欲動)の構造について:ポストモダン・メディア・エネルギーとは死のエネルギーだ


先に、イデア界の回転と人生のサイクルというタイトルで考察したが、死の欲動と精神病理の連関を想起したので、ここで、少し述べたい。
 私は、精神分析を批判する立場なので、できるだけ精神分析の視点や用語を使わないようにしている。もっとも、ラカン現実界想像界象徴界の三層の心身構成は、不連続的差異論の三層構成に近いものがあるとは見ているが、家族内的性欲主義の考え方は批判したい。
 さて、フロイトが晩年自身の理論を覆す「死の欲動」の考え方を導入したのは、よく知られている。戦争のトラウマをもつ患者が、いっこうに治らず、戦争の惨い経験を反復することから、フロイトが仮説したものである。これは、当然、破壊・攻撃的衝動である。
 私が直観したのは、私がこれまで述べてきた、かなり私説的なところがある近代的自我の狂気は、この死の欲動が起因ではないかということである。先に、近代的自我の狂気性とは、ポストモダンの時代となって、メディア界が解放されたが、そのエネルギーが反動化していることから発生するというようなことを述べた。
 問題は、メディア界のエネルギーと死の欲動/死のエネルギーとの関係である。先に後者の方について述べると、最初に、生のエネルギーについてみると、最初の二回の1/4回転によるエネルギーであると言えるだろう。それを、プラスのエネルギーとしよう。そして、さらに二回の1/4回転が発生して、死のエネルギー(死の欲動)が発生するとする。これは、マイナスのエネルギーである。生のエネルギー・プラスのエネルギーで構築した生命体を解体していく力と言えるだろう。神話で言えば、シヴァ神であろうか。あるいは、ディオニュソスであろうか。とまれ、死のエネルギーの破壊的力は納得できよう。
 では、賦活されたが、抑圧されるメディア界のエネルギーとは何か。これは、ポストモダンの事象を言っているのであるから、マイナスのエネルギーであると考えられよう。だから、賦活されたメディア・エネルギーとは、死のエネルギーである。ポストモダン・エネルギーは死のエネルギーであるというのは、感慨深いものがあるだろう。とまれ、私の試論は、これで論拠が生じたのである。ポストモダン時代における近代的自我の狂気は、死の欲動(死のエネルギー)によるものではないかという私の仮説は、これで証明されたのである。ポストモダンのメディア・エネルギーが、死の欲動・死のエネルギーであるのである。これは、暗いエネルギーである。攻撃・破壊的エネルギーであるのだ。この暗い恐ろしいエネルギーが、近代的自我においては、当然、抑圧・排出されて、反動的になるのであり、その破壊力は凄まじい。(今日、凶悪な犯罪が多いのは一つはこれが原因ではないだろうか。あるいは、精神病理が蔓延しているのも、これに関係するのではないだろうか。ハルマゲドンや終末論への願望もこれに関係するのではないだろうか。また、敷延すれば、小泉首相の破壊主義もこれに少しは関係するのではないか。きっと関係していると思う。)
 さて、近代的自我における狂気はこれで説明ができたとしよう。では、ポストモダン・メディア・エネルギー=死の欲動(死のエネルギー)は、常に攻撃・破壊的なのだろうか。ここで、偉大なスピノザ哲学の問題となるだろう。あるいは、スピノザニーチェドゥルーズの《力》の哲学の問題となるのである。また、《力》とは何かの問題ともなるだろう。最高度に重要な問題の一つである。
 ここでは、スピノザ哲学に絞ってみると、歓喜の肯定、そして、能動的観念の重要性を述べている。これは、私見では、イデア界的な共立性から発する共感性に基づくのである。つまり、スピノザ哲学とは、イデア界に知的に結びつく方法を探究した哲学である。思うに、スピノザの説く精神とは、メディア・エネルギーがあるのであり、これが、死のエネルギーであると考えられる。これを、スピノザは肯定的なものに変容しているのではないだろうか。即ち、反感にともなう死の攻撃・破壊的なエネルギー(これが、後に、ニーチェルサンチマンと呼び、D.H.ロレンスキリスト教徒の自己栄光化の破壊的な衝動と呼んだものだろう)を、イデア界の共立性から発する共感性の歓喜や、それをともなう能動的な観念によって、能動・肯定的な力に変容させることを説いているのではないか。つまり、イデア界の共立性から発する歓喜の情と能動的観念をもって、死のエネルギーを、肯定・積極・能動的な力へと変容させる方法を述べているのではないだろうか。では、その変容された死のエネルギーは、生のエネルギーになったのだろうか。否である。そうではなくて、死のエネルギーは、創造的なエネルギーと変じたのだ。結局、イデア界の共立的共感倫理と創造的エネルギーと能動的観念とが結合して、善的な力がここに発生していると言えるだろう。正に、エチカ(倫理)である。 
 さて、最後に、死のエネルギーがルサンチマンになる場合を考えよう。ポストモダン時代における近代的自我がそうだと考えられる。近代的自我の二項対立的発想に、死のエネルギーが加わって、きわめて攻撃・破壊的になると考えられる。凶暴である。結局、この攻撃・破壊性を無くすには、スピノザ的に言えば、歓喜を見出すことだろう。内省・省察して、自己の個としての、差異としての、単独・特異性としての歓喜を見出すことが出発点であろう。これは、上述したように、イデア界的な精神的感情であると思うのである。共立性から発する歓喜だと思うのである。イデア的メディア心身性である。思うに、今日、凶暴な犯罪が多いのや、精神病理が多いのは、このイデア界的共立的精神感情を自己内に見出していないからではないだろうか。内省・省察・瞑想するための《教養》・《涵養》・《陶冶》を受けてきていないのではないだろうか。かつては、古典や名作の読書がそれを果たしてきたのではないだろうか。古典や名作を読んで内的に、個的に、単独に喚起されるイデア界的な精神感情、心身感情の知覚・認識を経てきていないのだろう。簡単に言えば、想像力によって、心性が生命・賦活化されていないのだ。心性の生命の火が消えているのである。冷酷・無残・残忍・冷血になっているのである。
 本当に最後につけ加えれば、心的感情とは、イデア/メディア境界において発生するのだろう。単にメディア界自身のものではないだろう。