風景が、私を見ているような感じの分析:不連続的差異論とヌース理論

風景が、私を見ているような感じの分析:不連続的差異論とヌース理論


これは、構造主義では説明できない。《メディア》相補主義の視点から説明できるのではないだろうか。つまり、主客相補性を考えれば、この事象は当然である。つまり、客体は主体性を帯びると見ればいいのである。
 では、より基本理論から説明するとどうなるだろうか。相補性を、イデア界にもどすと、志向性になる。差異1→差異2の→である。ヌース理論だと、NOOSとNOSの関係だろう。即ち、NOOSとNOSとの接点である。
 今、この点の細部は論じないことにして、より重要な問題は、イデア界の力である。ヌース理論では、NOOSが物質の流れ、NOSが意識の流れと規定しているようだ。これが、ヌース理論におけるイデア界の根源的な力である。もっとも、双対性ということで、NOOS★とNOS★の対を付加しているが、ここでは、便宜的に、NOOSとNOSだけで考えよう。
 不連続的差異論の仮説では、イデアは知即存在、あるいは、思惟と延長を包摂した理念である。問題は、思惟や延長は、イデア界のどこにあるのかということである。思惟は、たとえば、差異1→差異2の→だろう。そして、延長は、差異1→差異2の総体であろう。即ち、不連続的差異の志向性が、思惟であり、そして、不連続的差異と志向性との総体が、延長であるということになる。ヌース理論で言えば、NOOSが志向性の起点で、NOSが志向性の終点で、NOOSと NOSで志向性を形成し、また、同時に、延長を形成すると言えるのではないだろうか。思うに、ケイブ(洞窟)を、差異とすればいいのかもしれない。
 とまれ、これで共通点を見つけたとしよう。問題は、思惟と延長との関係である。不連続的差異論では、差異と差異との間には境界がある。差異と境界との関係をどうするかである。あるいは、差異と境界と志向性との関係の《力学》をどうするのかである。とまれ、境界があるから、差異の志向性が考えられるだろう。ここで、作業仮説的に、推理していこう。境界は、差異のもっている内在的な力によって形成されているだろう。先に、差異の内在力として、水平/垂直力を考えた。そして、これが、他の差異の内在力と相互関係すると見たことがある。水平力をhorizontalからhとし、垂直力をverticalからv としよう。すると、差異1(h1/v1)である。即ち、dd1=h1/v1である。そして、この内在力を志向性としよう。しかし、志向性は、水平力に特に関係する。垂直力は、直立力である。とまれ、
h1→h2となるだろう。イデア界は絶対値の世界と考えるので、極性はない。そして、逆にして、h1←h2となる。ここで、ヌース理論から言えば、 h1→h2が、NOOSで、h1←h2がNOSに相当できるだろう。そして、これらは、回転するのだから、正にヌース理論と通ずるだろう。
 さて、不連続的差異の内在力が志向性、とりわけ、水平力が志向性となった。すると、水平力が思惟である。そして、垂直力であるが、それは、別種の思惟ではないか。即ち、分立・直立的思惟ではないだろうか。とまれ、この二重の思惟を不連続的差異は内在させている。他者的思惟(水平思惟)と自己的思惟(垂直思惟)である。そして、差異を含めて全体で、延長となるのではないだろうか。即ち、h/vが内在力で他者志向性と分立志向性をもつ。そして、dd(不連続的差異)とh/vを併せて、延長としよう。
 そして、1/4回転を考えると、水平思惟は、ゼロ化する。即ち、微分が可能となるのだ。志向性が連続性となるのである。dd1とdd2とが、連続化するのである。dd1∞dd2である(∞を連続化の記号とする)。このとき、連続化された差異の空間が発生するだろう。そして、そこには、光速が発生するだろう。このゼロ化空間では、差異の志向性は相互的に一致するだろう。即ち、dd1→dd2とdd1←dd2とが、ゼロ化において、極性をもつのではないだろうか。これが、相補性ではないだろうか。(とりあえず、そう作業仮説しよう。)これが、メディア界、メディア空間である。陰陽界・陰陽空間である。ここでは、思惟と延長も、相補性を形成している。スピノザの心身平行論の領域であろう。そして、連続化された差異が、量子(素粒子)なのだろう。差異が粒子で、志向性が波動なのだろう。そして、差異と志向性全体で、エネルギーとなるのではないだろうか。そうならば、志向性が光であろう。だから、メディア界の公式は、E=mc^2である。mが、差異粒子であり、cが差異志向性である。E=hνも等価だろう。
 さて、以上のメディア界、メディア空間から、さらに1/4回転して、現象界が発現するのである。これは、dd1dd2という連続・同一性化である。差異がまったく無くなり、同一性の個体が発現する。それは、自我であり、物体である。つまり、ゼロ化による連続的志向性さえ消えている。即ち、dd1∞dd2 からdd1dd2へと転換したのである。相補性が排除されたのである。志向性が思惟であったのだから、思惟自体が排除されたのではないか。そう、ここは微妙な問題である。dd1dd2は、同一性物体・延長である。しかし、思惟は排除されているのである。思うに、ここではまったく排除されたのではなくて、メディア界の連続的志向性がゼロ・ポイントになったのではないだろうか。ゼロ・ポイントの思惟ということではないか。
 少し発想を変えれば、dd1dd2というように、連結したのである。相補性が連結性になったのである。極性連結したと言えるのではないか。つまり、志向性の連結である。相補性の志向性が同一性の連結性になったのである。
 どうも、メディア界から現象界への変換構造をうまく捉えていないようだ。メディア/現象境界のもつ《構造》を捉えないといけないだろう。《構造》を形式化しないといけない。ここは、型が決定するのである。同一性の構造があるのである。思うに、dd1=dd2とすべきなのか。差異がまったく差異ではなくなり、同一性となるのではないか。この等号が、現象界の思惟ではないのか。差異を同一性に見る現象界の思惟ということではないか。では、差異を同一性に見る思惟の構造とは何か。ドゥルーズ的に言えば、他者の構造である。座標的に言えば、Z軸である。ここでは、ゆらぎがゼロ化し、すべて数量化するだろう。そう、単位化するのだろう。
 とまれ、同一性の構造の力学を提示しないといけない。2回目の1/4回転で何が起こるのだろうか。メディア界は陰陽の世界である。同一性の世界は、二元論の世界、二者択一の世界である。二項対立の世界である。そう、共役性の世界である。dd1とdd2との間に、同一性が入ると言えばいいだろう。同一性を idとしよう。すると、dd1・idとdd2・idとなる。このid化とは何か。そう、二回目の1/4回転において、差異が無化されるのだろう。それが、 id化・同一性化ではないだろうか。だから、dd1dd2で表現していいだろう。では、知覚はどうなるのか。志向性が無化された。それは、思惟の無化ではないのか。とにかく、それを思惟のid化としておこう。ドゥルーズは、他者の構造と言っていた。この他者を同一性と言っていいだろう。つまり、他者=同一性=二項対立である。差異の志向性が無化されたが、しかし、ここには、やはり、思惟のid化、思惟の同一性化があると言うべきだろう。志向性が、同一性に変換されたと言えよう。無となった志向性とは、同一性の点になったのではないか。だから、
dd1・dd2の方がいいのではないだろうか。・が、同一性の思惟なのである。そして、これが、同一性の構造なのである。これは、言語や貨幣の構造でもあるだろう。