他者=同一性の構造について:同一性構造暴力と不連続的差異的ポスト

これは、不連続的差異論的に言えば、メディア/現象境界の構造のことである。カントの超越論的形式と共通すると思う。そして、これは、貨幣や言語の形式と共通するだろう。問題は、この構造の精緻な分析である。これは、ラカンが自身のポスト・フロイト的な心理学に組み入れたポイントである。つまり、父の名、原シニフィアンの問題である。私は、ラカンの心理学の発想をも問題としているので、それを説明の根拠にするわけにはいかない。
 先にも述べたが、この境界において、差異の無化が生起し、同一性(identity:idと略す)が発現(仮現)するのである。差異1∞差異2が、差異1=差異2に変換するのである。同一性・等号(id)は、差異1と差異1の他者である差異2とが等価であることを意味する。これは、差異1は差異1であることができず、差異2でなくてはならないということであり、また、差異2は差異2であることはできず、差異1でなくてはならないという、相互同一性化を意味すると言えよう。ここには、同一性の暴力、相互暴力がある。平俗に言えば、画一化である。この同一性の暴力・相互暴力が、ドゥルーズの説いた他者の構造の実体であろう。つまり、同一性である他者を確認することで、自己同一性(id)を確認・保証するのである。
 ということで、ドゥルーズの述べた他者(=同一性)の構造とは、現象界における同一性暴力と換言できるものである。これは、同一性であるべき他者への欲望と言えるだろう。単に他者が必要であるだけでなく、他者を同一性として欲望するということである。これが、現象界=近代主義の欲望=暴力なのである。そして、西洋文明とはこのような同一性=他者の構造欲望・暴力に駆られているものと言えよう。そして、資本主義もそうである。しかし、《ポストモダン》とは、同一性の欲望ではなく、「差異の反復」なのである。脱現象界化で、メディア界化であり、さらにイデア界化である。資本主義のポストモダンが起るだろう。差異の反復としての資本主義。それは、他者=同一性の構造をもたない。それは、単独性・特異性・不連続的差異の共立共創としての資本主義である。これまで、同一性=他者の構造の資本主義であったが、これからは、脱構造として、差異の、とりわけ、不連続的差異の資本主義になる。これまで、現象界・同一性の暴力をもつ資本主義であったが、不連続的差異化されることで、共立性が発動するのである。具体的に言えば、交換価値の同一性の暴力が作動しなくなるということである。交換価値=同一性は、使用価値や主体価値の差異に服するようになるということではないだろうか。つまり、交換価値=同一性は、単独性・特異性・不連続的差異的に配分されるだろう。不連続的差異的価値(イデア的価値)が、政治・経済・文化の主導・主体的価値になるのである。