創造性とは:ホワイトヘッドの「把握」(prehension)とイデア/メデ

「襞」という概念について:不連続的差異共存資本主義社会というエンテレケイア

ドゥルーズの『襞』はとても刺激的である。アイデアを刺激するのである。この書の冒頭を少し読んだだけで、いろいろ考えが浮かぶ。後で、冒頭部分を引用したいが、今は、簡単に襞に関する私見を述べたい。
 やはり、ドゥルーズは、イデア/メディア界の境界において哲学しているのであり、その「絶対矛盾的自己同一」性の「カオスモス」にいわば飲み込まれているだろう。ここでの論理的不明快さ、論理的渾沌の最中にあって、哲学しているのであり(とても、中沢新一に似ているが、中沢の方が、より「いい加減」、杜撰であるが)、論理的思考、知的思考としては、杜撰さがある。知性の曇り、濁り、混濁があるのである。しかしながら、イデア/メディア境界(IM境界)で思考しているので、真理に、あいまいな様態ではあるが、接近するのである。だから、私は、刺激を受けるのである。
 本件の「襞」であるが、それは、不連続的差異論から見ると、正に、イデア界/メディア界境界、イメディア境界、IM境界を連続性の側から、メディア界側から捉えた見方、捉え方、視点であると思えるのである。連続性の視点だから、襞という連続的差異的織物が出てくると考えられるのである。これは、もう、時代遅れの考え方であろう。不連続性を原点に置かなくては、現代、現実、真実・真理は捉えられない。たとえば、連続性の立場が、先の倒錯衆院選挙を生んだのである。首相の「改革」と連続する立場(メディア界の立場)が、あの結果を生んだのである。(思うに、メディアの時代をもう終わった思う。不連続性のエポックである。ブログやHPがデモクラシーを現代では体現しているということは、それらは、不連続的差異の視点であるということを考えると、ポスト・メディアであり、イデア時代であると言えるだろう。あるいは、不連続的差異、不連続的イデアの時代と言える。そう、ブログはメディアなのだろうか。これは、直接であり、剥き出しであり、メディア(中間、媒体、媒介)がないのではないか。イデア、特異性、不連続的差異の時代だ。ブログ・イデアの時代だ。)
 ということで、少し脱線したが、「襞」は時代遅れである。ドゥルーズは時代遅れである。ポスト構造主義は時代遅れである。メディアでなく、イデアの時代である。不連続的差異の時代、イデア界の時代、不連続的差異論の時代である(時代という言葉もなにか「時代遅れ」のようだ。エポックもそうだ。アイオーンの方がいいのかもしれない。)。そう、資本主義も近代の連続主義(国家資本主義、社会主義的資本主義、派閥・利権・集合的公共投資的資本主義)から脱する時代である。新自由主義とは、そのような意味合いをもつ、そのような過渡期の意味をもつだろう。近代的連続性を新自由主義は破壊するのだ。しかし、本当に向かうべき方向は、不連続的差異である。不連続的差異のもつ共存・共立・共生性である。イデア界へ向かうべきなのである。不連続的差異資本主義、差異共存共創資本主義、イデア界的資本主義である。もともと、資本主義は差異、不連続的差異、イデア界から駆動しているのである。イタリア・ルネサンスが資本主義の原点である。不連続的差異的共存資本主義が今や誕生する時である。









創造性とは:ホワイトヘッドの「把握」(prehension)とイデア/メディア境界創造性

ホワイトヘッドの「把握」(抱握)prehensionとは難解な概念である。以下のドゥルーズの説明を、不連続的差異論に適用して考えると、「把握」とは、イデア界とメディア界の境界を基礎とした知覚行為ではないだろうか。イデア界の差異共存体という特異性である主体性がある。それは、また、多様な連結を生成するメディア界へと変形する指向をもつ。つまり、イデア界とメディア界の境界は生成界と言うべき領域であり、おそらく、プラトンのコーラに相当するだろう。自然は、造化は、黄金分割、フィボナッチ数をもって生成する構造、自然構造をもっているだろう。それは、この境界の構造であると言っていいだろう。しかし、その規定構造がすべてではない。喩えて言えば、「がらくたDNA」のように連結されない不連続的差異群ないし不連続的差異共存体が、この境界領域に存するだろう。これは、ある意味で、剥き出しのイデア界、剥き出しの不連続的差異共存体である。(人間は、これは他の存在と比べて、これが過剰にあると言えよう。というか、イデア界総体を内在・内包・体現していると言える。)これが、原創造性であろう。これが、新たな連結作用をもつのである。だから、この非連結的な剥き出しの不連続的差異群・不連続的差異共存体の原創造性が、現象界の対象を、「反映」して、取り込むことができるのである。この新たな取り込み、新たな順列化は、再編成・再構築は、現象界の対象を不連続的差異に還元して、成されるのではないだろうか。そう、フッサール現象学的還元のように、現象を不連続的差異に還元して、それを、主体性・原創造性に取り込んで、創造すると言えるのではないだろうか。思うに、現代美術の方法に似ていると思う。現象を不連続的差異に還元して、それらを新たなに連結して創造する、鋳直すのである。(ジェイムズ・ジョイスの方法、エズラ・パウンドの方法に似ているだろう。断片化して、それらを共存共立化させるのである。)
 ということで、ざっとではあるが、ホワイトヘッドの「把握」とは、イデア界とメディア界の境界のもつ創造性が原基となっている創造的理解行為であると言えるのではないだろうか。 
 なお、最重要な、イデア界とメディア界の境界を簡潔に命名すべきである。私が言ったイデア極とは、メディア界よりの言い方で不十分である。イメディア境界とでも呼ぼうか。それとも、IM境界。I/M境界。

「・・・ホワイトヘッドにとって個体とは創造性であり、ある〈新しいもの〉の形成である。もはや不定辞でも指示詞でもなく。人称的なもの問題である。部分をもち、しかも一部分であるもの、また内在的な特性をそなえるものを、要素と呼ぶことにすれば、個体とは諸要素の「融合」であるといってよい。これは連結や結合とはまた別のものであり、把握(prehension)といったものである。・・・把握とは個体的な統一性である。あらゆるものはそれに先行するもの、それに付随するものを把握し、徐々に一つの世界を把握する。目とは光の把握であり、生物は水、大地、炭素、塩などの把握である。・・・「反響、反映、痕跡、プリズム的な変形、遠近法、仕切り、襞」といったものは、心的な生活をなんらかの形で先取りする把握であるということができる。把握のベクトルは世界から主体に向かい、把握されたデータから把握するものに向かう(「自己超越体」)。それゆえ把握のデータは把握の公的な要素であり、一方主体とは親密な、あるいは私的な要素であって、直接性、個体性、斬新性を表現するのである。」
『襞』ドゥルーズ著、p.136.








ドゥルーズの『襞』からの引用

以下の引用において、ドゥルーズがカオスと呼んでいるものは、不連続的差異論における不連続的差異の共存空間であるイデア界に当たると考えられる。また、「篩」とは、メディア界のこと、あるいは、不連続性から連続性への転換のことを意味するだろう。イデア界とメディア界の境界と言ってもいいだろう。後で、引用を続けたい。ホワイトヘッドライプニッツとを関係させている箇所で、実に興味意義深い。
 もっとも、やはり、ドゥルーズイデア界をフッサールのようには、的確に捉えていない。イデア界はカオスというよりは、コスモスである。不連続的差異共存体というコスモスである。カオスというのは、イデア界とメディア界の境界を指すならば、そう言えると思う。しかし、境界は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一という術語・概念が十分に表現している。西田の方が、ドゥルーズよりは、明晰であろう。ドゥルーズは、これまで何度も言ってきたように、境界的混同・揺動的思考を行なっていると言えよう。

「・・・出来事は一つのカオスの中に、カオス的な多様体の中に生じるのだが、それにはある種の篩(ふるい)が介入することが条件である。
 カオスは存在しない。それは抽象にすぎないのだ。それはカオスから何か(無ではなくてむしろ何か)を出現させる篩と切り離せないからである。カオスとは純粋な多(Many)であり、純粋な離接的多様さであるが、何かとはあsる一つ(One)であって、あらかじめ一つの単位でなく、むしろ任意の特異性を指示する不定冠詞なのである。いかにして多は一となるのか。ここには形をもたない可塑的な膜のように、電磁場のように、さるいは、ティマイオスの入れ物【コーラのことだろう】のように、大いなる篩が介入し、たとえその何かがカオスとほんの少ししかちがわないにしても、やはりカオスから何かを出現させるのでなければならない。この点でライプニッツは、すでにカオスに近似したいくつかのものを与えることができた。宇宙的な近似にしたがえば、カオスとは可能なものの集合であろう。つまりそれぞれが、それぞれに実在をめざすかぎりにおいて、カオスとはすべての個体的な本質なのである。しかし、篩は共可能的なものしか、共可能的なものの最良の組み合わせしか通過させない。物理的な近似にしたがえば、カオスとは無底の闇であるが、篩はそこから暗い底、フスクム・スブニグルムを抽出するのであり、それは暗黒とほとんど違わなくても、あらゆる色彩を含んでいる。篩とは、〈自然〉を構成する、無限に機械化された機械のようなものだ。心的な観点からすれば、カオスとは普遍的な目眩であり、無限小のもの、無限に小さいものとしての、ありうべきすべての知覚の集合である。しかし篩はそこから、調整された知覚の中に組み込むことのできる微分をとりだす。もしカオスが実在しないとしたら、それは大いなる篩の裏面にすぎないからであり、この篩は、われわれにはカオス的に見えない全体と部分の系列を無限に構成するからである。これがカオス的(任意の系列)に見えるとしたら、それらを追うことができない無能さによってカオス的であるにすぎない。洞窟さえもカオスではなく、一つの系列であって、その要素はやはり、ますます精妙になる物質にみたされる洞窟であり、洞窟の一つ一つは後続する洞窟に広がっていく。」(第6章 一つの出来事とは何か)
『襞ーライプニッツバロックジル・ドゥルーズ
宇野邦一訳 河出書房新社 pp.133~135

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430924209X/249-3508088-6643522








イデア界と現象界とのインタラクションについて:交互作用のプロセスとしてのメディア界

先に、経験がイデア界に影響を与えると示唆したが、理論的にはどうなのか。イデア界とメディア界の境界は、不連続性と連続性とが不可分一体、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の状態にある。つまり、不連続性即非連続性である(即非は、等号且つ不等号を意味する鈴木大拙の術語である)。この境界に経験・現象は影響を与えると思う。たとえば、暴力は、差異共存性の否定であるから、それは、暴力を振るう者の差異共存性を傷つけると考えられる。ここで、図式化すると、

イデア界とメディア界の境界
 
d1|d1
/ |〜
d2|d2
/ |〜
d3|d3 
/ |〜
・ |・
・ |・
・ |・
/ |〜
dn|dn

不連続性・・・・ |・・・・・連続性
差異共存性・・・ |・・・差異連結性


ここで、広義の暴力を揮ったとしよう。それは、差異共存性を否定する行為である。それは、メディア界/現象界の自我中心主義的行為と言えるだろう。反動行為である。それは、上図の境界を阻害すると言えよう。つまり、境界面に加害するのであり、この阻害・加害が、差異共存性への歪みとなり、「記録」、「記憶」されるだろう。つまり、イデア界への歪みの「記録」・「記憶」である。結局、イデア界にこの害悪が記録・記憶される。いわば、閻魔帳である。仏教や霊学では、死んだとき、生前での行為の清算がされると説かれる。しかし、これは、魂という連続体を前提としている。不連続的差異論は、そのような連続体を否定している。この個と普遍の問題は以前相当悩んだ問題である。特異性=普遍性であるが、この普遍性とは、イデア界である。だから、結局、差異共存性への阻害によるイデア界の歪みの記録・記憶がされるだけに留まるだろう。そして、イデア界は、この歪みを修正すべく、新しい個体を発生するだろう。歪みを更正する個体発生である。ここには、個の因果関係はないだろう。因果・因業はないのである。
 では、逆の場合はどうなのか。差異共存性を積極的に肯定した場合は、どうなるのか。それは、スピノザ哲学で言えば、能動的観念の発生であり、活動力が賦活されるような状態になるだろう。つまり、差異共存性、差異共存志向性を、個体において、活性化することは、イデア界の力を活性化することであり、イデア界と個体が共鳴し、インタラクションの回路が形成されて、両者、親和関係となるだろう。つまり、イデア界自体も賦活されると言えるのではないか。つまり、ホワイトヘッド哲学のような過程(プロセス)、即ち、メディア界を媒介として、経験・体験・行為・実践的現象界と根源的イデア界が相互作用・相互形成のプロセス関係にあるということになるだろう。








不連続的差異論(はてなダイアリー

これは、ODA ウォッチャー ズ氏とsophiologistがブログ 上で出会って生まれた新しい理論 である。端的に言えば、ジル・ドゥルーズの差異の哲学 を、その連続 性と不連続性との不整合さを取り除いて、後者中心に、首尾一貫・整合化したものである。これは、ポストモダニズムポスト構造主義の後退後や、グローバリゼーション を受けた後の、閉塞状況から生まれたものであり、多様な分野・領域での行き詰まりに解明・解決を与える統一的理論と考えられる。以下を参照されたい。

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0

http://kaisetsu.ameblo.jp/category-232976bb6994bc1dc0108d98b2b3a1d0.html

http://renshi.ameblo.jp/category-c500ecea7a687b51817aff1be94a2ccf.html

http://blog.melma.com/00112192/

http://blog.melma.com/00135605/20050317203443

不連続的差異

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db?kid=98883

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db

後記:以下、不連続的差異論 の新しい考え方がsophiologistから提起されている。これはまだ決定を見たものではなく、暫定的なものであるが、本理論 の確立やさらなる発展のために役立つであろう。

http://blog.melma.com/00135605/20050322205819

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050524

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050525

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050528

プラトンアリストテレス の統一論が提起された。

http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html

ODA ウォッチャー ズ氏による不連続的差異論 の新たな解明である『不連続的差異論 ノート 』が更新 中である。

http://blog.melma.com/00138706/

『不連続的差異論 入門』として、本理論 の平易な解説を始めた。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913

不連続的差異論 の先駆として、ニーチェドゥルーズ 哲学 だけでなく、フッサール 現象学 もそうであることが、発見された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003750346.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003779798.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003913350.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003954621.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003982905.html

スピノザ 哲学 と現象学 の統一が提起された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004264966.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/1845359#1845359

課題として、ホワイトヘッド 哲学 と不連続的差異論 の比較論が、不連続的差異論 を最終的に西洋 哲学 の集大成であり、また、新しい世界哲学 であることを、検証することになると期待される。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004271406.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004299001.html

不連続的差異論 とホワイトヘッド 哲学 との整合性・互換性の一つの試みが為された。まったくの試論段階であり、これから、さらに検討されねばならない。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004573995.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004716499.html (アフォーダンス 理論 との関連に言及)

イデア 界とメディア 界の境界問題を解明した。即ち、差異共存志向性(フッサール の志向性ないし間主観 性・相互主観 性に相当する)が、イデア 界の力に存することを解明した。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004835272.html

sophiologist による仮説であるが、ガウス 平面であるイデア 界は、x軸とy軸の直交 座標をもち、それに直交 するz軸が時間軸となり、これにさらに直交するα軸、β軸、γ軸の空間軸を考えた。即ち、イデア 界は、x軸とy軸であり、y軸がイデア 界とメディア 界の境界であり、y軸⇒z軸はメディア界であり、そして、z軸、α軸、β軸、γ軸が時空四次元 を構成するのではないかと考えた。

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004926125.html

さらに展開させると、x、y,z,α、β、γ、δの7次元 となった。これからもさらに検討を続ける。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004948722.html

ID (インテリジェント・デザイン )理論 、プラトン の『ティマイオス 』の宇宙 創造神デミウルゴスユダヤ 神秘思想 の原人アダム・カドモンの概念 も、不連続的差異 共存体であるイデア 界の概念 で説明できるようである。結局、イデア界である差異共存体が人間個体に超越論的に内在しているということになった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004956144.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004968981.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004977242.html

物理学 、相対性理論量子力学 との統一等に関しては、ODA ウォッチャー ズ氏の『不連続的差異論 ノート』を参照していただきたい。思うに、不連続的差異論 を、超ひも理論ペンローズ のツイスター 理論と比較検討することで、最終的に、不連続的差異論 は、文系 、理系 の分化を超克した絶対的超統一理論 として完成すると考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004826864.html


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880