ID(インテリジェント・デザイン)理論、プラトンの『ティマイオス』

ID(インテリジェント・デザイン)理論、プラトンの『ティマイオス』、イデア界・差異共存界

先のイデア界の構造に関する思考実験は、イデア界と差異共存体とを同一に見たことを基礎としている。つまり、イデア界が直接、人間に内在しているということである。つまり、イデア界全体が内在しているということである。果たして、それでいいのだろうか。即ち、森羅万象、全宇宙を形成するイデア界全体が人間個体に内在しているということである。簡単に言えば、古代的宇宙論の、マクロコスモス=ミクロコスモスという考えに通ずる。一種ホログラム的発想である。ただ、違いは、不連続的差異共存体である点である。(正しく言えば、不連続的差異共存界である。)この全体が個体に内在すると言っていいのだろうか。
 少し観点を換えよう。睡眠時において、知覚・意識は、根源に帰還すると先に述べた。現象界的知覚・意識から、メディア界的知覚・意識(夢)へ、そして、イデア界的知覚・意識(超光)へと還元するというように考えられる。これは、正に、知即存在の不連続的差異共存界の認識だろう。
 この構造をもう少し検討しよう。イデア界から考えよう。差異共存体があり、それが、自然発生的に、差異連結体であるメディア界を構成する。夢や芸術・神話的世界である。アニミズム的世界である。構造界である。そして、ここから、差異連続・同一性現象体が発生する。そして、昼間の知覚・意識が形成される。いちばんのポイントは、イデア界からメディア界への転換である。不連続性から連続性への転換である。メディア界から現象界への転化は、連続性の延長であり、微分積分の世界である(ドゥルーズの言った異化の世界である)から、ほとんど問題はない。だから、イデア界とメディア界の境界は断層として理解するのが正しいだろう。不連続的連続構造である(先にも触れたが、ここで、混同である誤謬・錯誤が発生するのである。天才的なベンヤミンでさえ、この陥穽に陥ったのである)。
 とまれ、差異共存体⇒差異連結体⇒差異同一体という変換構造が確認できる。ここでのテーマにもどると、差異共存体が、イデア界自体であるかどうかである。あるいは、差異共存体とは、イデア界の一部であるのか、それとも、イデア界のコピーのようなものなのか、それとも、・・・。思うに、イデア界の一部とは主に人間以外の存在にあてはまるのではないか。ならば、コピーなのか。反映なのか。(思うに、この辺の問題は、プラトンイデア論の伝統的問題であろう。)差異共存体自体なのか。差異共存体の反映・投影・投射なのか。内在か、投影か。オカルト学では、マクロコスモスとミクロコスモスとの照応である。これは、投影説であろう。ネオプラトニズムと言ってもいいだろう。しかし、不連続的差異論では、これは内在ではないだろうか。超越論的内在性である。ならば、やはり、差異共存体が超越論的に内在するということになる。これは、フッサール現象学と重なる。つまり、相互主観性・間主観性とは、差異共存体と一致するということである。イデア界自体ということである。ここで、少し飛躍すると、大乗仏教の仏性とは、この差異共存体のことであろうし、また、教父キリスト教の種子的ロゴスも差異共存体のことだろう(万教帰一)。
 ということで、やはり、人間個体には、差異共存体が(超越論的に)内在していると考えるのが正しいことになる。聖パウロトルストイユング神の国は汝の内に在りとは正しいのである。そして、睡眠時は、この差異共存体に還元されると見ていいだろう。即ち、人間は、睡眠時にイデア界に帰還しているのである。
 さて、次に、本件のタイトルであるID理論やプラトンティマイオスデミウルゴス:創造神)に簡単に触れると、インテリジェント・デザイン論は、造化に、なんらかの知的存在を仮定する理論であろう。不連続的差異論から見ると、それは、正に、イデア界である。知的存在である不連続的差異共存体が、インテリジェント・デザインということになるだろう。また、プラトンの有名な宇宙創造神のデミウルゴスであるが、それも、イデア界の不連続的差異共存体ということになるだろう。さらに、敷延すると、ユダヤ神秘思想の原人アダム・カドモン(カダモン)とは、やはり、不連続的差異共存体を指しているのではないか。ただし、境界思考によって、連続化されているが。ということで、本件の記事を終わりたい。






イデア界の構造について:思考実験

人間の根源がイデア界にあるなら、イデア界の構造を解明する必要がある。これまで、基本的には、不連続的差異共存空間として扱っては来ただけである。これまで、イデア界は、大根源界であり、人間の根源はメディア界が中心だと思っていたのである。
 思うに、メディア界はいわば衣装である。人間の根源的差異に着せる衣装である。イデア界の差異共存体がメディア界で形態化されるのである。形相である。差異共存体が「質料」になる。そして、遺伝子とは、差異共存体・イデア体がメディア界化したものではないだろうか。つまり、連続・連結された差異共存体・イデア体である。
 とまれ、差異共存体は、言わば、無意識にあると言えるだろう。(仏教の阿頼耶識とは、これに関係するのだろうか。)そして、差異共存体が、メディア界化されて、差異連結体となり、これが、夢の本体である。そして、これが現象界的に連続・同一性化して、差異現象体となり、知覚・意識をもつ。(思うに、フロイトは、差異連続体を無意識としている。ラカンは、現実界という概念で、差異共存体に近づいているだろう。)図式化すると、

 (イデア界/メディア界/現象界)
 差異共存体/差異連結体/差異現象体

となる。差異連結体は、ゆらいでいる多様体であるが、その根底に差異共存体がある。それはどういう仕組みをもつのか。つまり、差異連結体と差異共存体の関係構造である。これは、当然、メディア界とイデア界との関係構造である。イデア界とメディア界との境界の関係構造である。差異連結体は、この境界に達するとしよう。そこは、イデア界の入り口である。そこでは、差異共存の世界の地平がある。差異共存するハーモニーの世界の地平(華厳宇宙)である。(そう、円空の「法の御音」とはここから聞こえるのだろう。)思うに、差異共存の回転の「風」に触れるのではないだろうか。この風がイデア界の力ではないか。イデア界の風。イデア界の流れ。イデア界の光。そう、イデア界を満たす光・超光に差異共存体は存しているだろう。あるいは、差異共存体自体が、イデア界の超光である。回転する超光差異共存体が存在する。これに差異連結体は境界で触れる。というか、差異連結体は、境界に佇み、根源の差異共存体の力・虚力に接続されて、新たな力を補給されるのではないか。
 この力の変換の仕組みを解明しないといけない。差異共存体から差異連結体へと変換する。そう、無限のエネルギーがいわば、有限のエネルギーに変換するのであろう。そして、後者は消費される。これが疲労である。そして、イデア界とメディア界との境界において、新たな無限エネルギーからの補給を得るのであろう。そう、イデア界の無限エネルギーを差異共存体はもっていると言えるだろう。そうすると、人間は、正に、イデア界本体であり、永遠回帰永劫回帰するだろう。個ではなくて、自我ではなくて、差異共存体としての「輪廻転生」があるだろう。ひとまず、ここで留めたい。

p.s. もし、差異共存体が、記憶をもつなら、ある意味で、輪廻転生が生じてしまうだろう。以前、差異とは知即存在であると言った。知的存在である。問題は、経験と差異共存体との関係である。現象という映像を、差異共存体は記録するのか。媒体の問題でもある。差異連結体と差異連結体との反応が差異現象でもある。思うに、ここはホワイトヘッド哲学と関係する。経験がイデア界に関係するのか。あるいは、獲得遺伝の問題でもある。現象経験において、差異連結体(差異連続体)は、経験し、差異連結構造に変化が生じるだろう。これは、メディア界の変容であり、同時に、イデア界の差異共存の構成に変化が生じることではないのか。新たな差異連結が生じるのであり、その差異連結は境界を介して、イデア界を変容するのではないか。このように考えると、ホワイトヘッド哲学的になるし、獲得遺伝も肯定されるし、また、阿頼耶識も肯定されることになるだろう。悪人がいるから、イデア界に歪みが生じるだろう。そして、この歪みを生まれてくる誰かが背負うのではないか。つまり、障碍をもって生まれる人とは、誰かが作った罪を背負って生まれるのではないか。自分の罪ではなくて、他人の罪をいわば贖うために生まれるのではないか。いわば、キリストのような存在ではないか。先天的障碍者は、キリスト達ではないか。






デモクラシーとインターネット:言葉と叡知実践:ソフィオプラクティス

先の選挙に関係してわかったように、マスコミ(テレビや大手新聞)が、御用メディアであることであり、インターネットにおいて、デモクラシーが生きているということである。もっとも、ネットでも、洗脳されたものは洗脳されたままであったが。
 今日、確かに、映像(テレビ、映画、DVD等)の力は大きく、出版は不振であるが、活字文化は、実は、ネットで一種蘇っていると言えるのではないだろうか。出版文化が今危機にあると言えるだろう。私は自分では活字人間、本好きとは思っていないが、アトランダムなかなりの蔵書がある。しかし、大事なのは、言葉よりは、真理だと思う。知恵だと思う。だから、私自身は、活字人間、本人間ではないと思っている。ビブリオマニアではなくて、フィロソフィア人間である。そう、ソフィア愛人間である。
 何が言いたいのかと言うと、様々なメディアを通して、ソフィア(知恵)をもち、実践することが大事だと思う。フィロソプラクティカルである。西欧近代は、グーテンベルグの活字印刷から始まったと言えるだろう。しかし、今日、言葉やメディアを通して、叡知実践をもつことが必要になっているのではないか。マスコミが御用メディアになっているのは、単にメディア業に過ぎず、叡知実践を忘却しているからだろう。言葉より、ソフィオプラクティスと言いたい。





メディア界の構造について:その3:睡眠と夢

私は先に、睡眠時において、イデア界の力が心身に補給されるのではないかというような考えを示唆した。日中の覚醒時は、知覚・意識は現象界のものである。そして、睡眠時においては、知覚は思うにメディア界に移動する。というか、現象界で機能しているメディア界が、睡眠時においては、メディア界自体に返るということではないだろうか。つまり、知覚の根源は、メディア界であるということである。そして、メディア界は差異連結のゆらぎの世界であり、いわば、幻想的な世界であるから、夢を見るのだ。夢とは、メディア界そのものであろう。(ここで、フロイトの隠喩と換喩の問題があるが、ここではおいておく。)しかし、睡眠時において、ずっと夢を見ているわけではない。これは、脳波を調べてわかることでもある。では、夢を見ていない時の睡眠時において、「知覚」はどうなっているのだろうか。
 私の直観を言えば、繰り返すことになるが、イデア界に参入しているのである。不連続的差異論から見ると、個体を形成している差異連結体・連続体(メディア界)は、睡眠時において、思うに、イデア界とメディア界の境界に帰還するのではないだろうか。否、それを超えて、イデア界に帰還しているように思うのである。ここで、知覚・意識とは何かという問題がある。これは、不連続的差異論から言えば、境界である。境界から知覚・意識が発生するだろう。つまり、90度回転によって、差異が連結する。ここで原知覚・意識が発生するだろう。しかし、このイデア界とメディア界の境界は、当然、イデア界に触れているのである。つまり、睡眠時において、知覚・意識は、イデア界とメディア界との境界に達して、イデア界に触れていると考えられるのである。これが、私の先の示唆への論拠となると思う。即ち、睡眠時において、「知覚・意識」は、イデア界に触れている、ないし、参入しているのである。そして、イデア界のもつ差異共存力を得ると言えるだろう。現象界は、弱肉強食の惨い世界であるが、イデア界に接して、その差異共存力に触れて、心身は活性化されると言えるだろう。私の経験で恐縮だが、ひどく落ち込んだ時も、一晩寝ると、たいがい翌朝は元気、パワーが出る。そして、夢ばかり見た時は、疲労困憊の態であった。つまり、境界ではなくて、メディア界のみに留まったということだろう。
 ならば、人間存在とは何かということになろう。不連続的差異論から言えば、不連続的的差異の連結体として人間現象が生成される。しかし、根源は、イデア界である。そして、睡眠時に境界において、イデア界に触れて、その秩序・ハーモニー・コスモスの力を得ると言えるのではないか(参考:華厳経)。そして、それが、本来の力ではないか。つまり、根源の力である。つまり、差異が共存している根源的な調和の世界である。ここに、絶対的な力があるのだろう。そして、睡眠時にこれに触れて、新たな力を得るのだろう。
 そうすると、力とは何かということになるだろう。あるいは、元気、健康とは。これは、「気」にも関わる。それは、単刀直入に言えば、不連続的差異の共存・共立状態のことだろう。ここにこそ、根源の力があるのだろう。現象界の差別・弱肉強食の世界に、知覚・意識は疲弊する。しかし、睡眠時に、イデア界に参入して、新たな調和エネルギーを得ると言えるだろう。この調和エネルギーとは、イデア界の力、複素数の力、虚力である。思うに、これこそ、「気」であろう。そして、この力は、結局、現象界における実現を志向するだろう。差異共存志向性の現象界的実現を求めるのである。資本主義とは、これの反動であるが、反動であるからこそ、これを志向していると言えるだろう。
 では、人間とは何かという問題も生じる。以前に言及したが、人間は、イデア界が過剰なのであり、それに対応して、現象界的知性が発達したのである。だから、当然、人間は、隠蔽されるイデア界を志向するのである。理性とは、イデア界の知性に他ならないだろう。人間とは、過剰にイデア界的存在なのである。
 インドの宗教で、汝はそれなりという言葉があるが、それとは、イデア界である。人間はイデア界なのである。テオーシス(神化)という思想であるが、ずれているだろう。すでに人間は神的存在である。だから、それを意識することが必要ということになるだろう。