メディア界の構造について:その2:思考実験

メディア界の構造について:その2:思考実験

先に、イデア界=ガウス平面(xy直交座標・複素平面)の90度回転・1/4回転で、メディア界が形成され、これが、イデア界=ガウス平面に直交するz軸となると述べた。そして、このz軸を時間軸、光速の軸と考えたのである。この点について、さらに検討を続けたい。
 z軸は、連続的差異の領域ではないか。y軸(虚数軸)は明らかに、不連続的差異の領域である。だから、y軸からz軸への転換過程において、不連続性から連続性への転化が生じると言えるだろう。y⇒z転換問題である。これは、y軸からz軸への90度・1/4回転と言うこともできるだろう。

z軸   y軸
 |  /
 |  /
 |/_____x軸
 |
 |
 |

このyz転換領域が、イデア界とメディア界の境界ということになるだろう。z軸自体は、もはや、メディア界であり、連続的差異領域である。とまれ、この変換構造の力学を理論化したい。(この点は、ODAウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』で数学的に考察されているので、参照されたい。)つまり、その解明である。
 さて、y軸で何かが起こるのである。私は、境界の連続・連結化と言った。ここで、また直観実験考察をしてみよう。境界がいわば連続平面ないし連続多様平面となるのである。(ドゥルーズガタリの内在平面、存立平面とはこれを指しているのではないだろうか。)直線ではないのか。否、平面とするのが正しいだろう。何故ならば、イデア界はガウス平面だからである。そして、当然、90度回転においても、平面化されるはずである。だから、連続的差異多様平面である。これはまた多様体である。(ベルクソンの持続/差異論は、ここに起源があるだろう。)これが、また、時間・光速の平面であろう。相対性理論の平面であろう。思うに、これが、時空一如の原時空である。つまり、境界連続・連結化によって、等価原理が形成されたのではないか。イデア界においては、差異は個々別々であり、等価原理はない。しかし、境界連続・連結化により、差異が等価されると言えるのではないか。この等価原理光速度一定の原理ではないか。あるいは、連続・連結の原理が光速度一定の原理ではないか。
 結局、ここにあるのは、超光であった境界の光速化であり、それは、時空の発生である。即ち、境界連続・連結化が、相対性時空の発生であろう。そして、連続化された差異は、質量ないし重力となるのではないだろうか。
 では、量子はどうなるのか。量子は、光と同じであろう。つまり、境界連続・連結による連続的多様体が量子ではないだろうか。そして、連続的差異が質量・重力となるということではないだろうか。この思考実験だと、相対性理論量子力学は一致する。ただし、前者は、重力の問題をもっている。そう、連続的境界/連続的差異のメディア界において、重力と量子はリンクしているだろう。相補性と言ってもいいかもしれない。つまり、連続性が、量子=相対時空を形成し、また、同時に、重力を形成するのではないだろうか。量子と重力は連続性、メディア界の双子ではないだろうか。空間が重力で曲がるというのは、ここから見れば、当然のこととなる。だから、まとめれば、量子と重力の相補性があると言えるのではないか。量子/重力相補性である。量子重力理論である。
 とまれ、この量子重力的メディア界が、さらに、90度回転して、つまり、α軸に転化して、現象界を形成するということになるのだろうか。しかし、メディア界は時空体であるから、α軸ではなくて、時空四次元の軸、α、β、γ、δの4つの軸をもつだろう。すると、結局、全体で、x,y,z,α、β、γ、δの7つの軸、7次元となる。






シェイクスピアは英外交官?

私はかつて、シェイクスピアを研究していたので、この記事は興味がある。今日では、シェイクスピアは、賞味期限が切れたようだが(もっとも、構造主義者、不連続論者であることは、偉大である。シェイクスピアイデア界から創作したと思う。)、作品を読むと、政治問題、権力問題、イデオロギー問題、世俗問題、多種多様である。また、とても、皮肉である。『ハムレット』等を読むと、外交問題がはっきり出ている。思うに、この記事の内容はある面で当たっていると思う。結局、シェイクスピアの多面性をどう理解するかである。非常に世故にたけている。また、少し、幼稚な側面があるが、それは、当時の民衆のレベルに合わせているからだ。エンターテイナーでもあるからだ。
 とまれ、私の考えは、当時、エリザベス朝時代における渾然としたつながりをもつサロンのようなものがあり、シェイクスピアはここに出入りしていたと思う。それで、多くの人、様々な階層の人と接し、多くの情報を得たと思うのである。当然、外交官にも知り合いがあったであろう。

p.s. 先ほど、ふと思ったのであるが、『リア王』は、晩年のエリザベス女王に言及している芝居ではないのか。リア王は男性であるが、劇の途中の、狂乱のリア王が、ヒステリーが起こるのを防ごうとしたせりふがある。当時、ヒステリーは女性の病気とされていたのである。また、歴史的に、独身で、子供のいない、エリザベス女王は、国民に不安をかき立てたのである。また、女王の気まぐれさも、問題とされていたのである。以上のことは、リア王を、エリザベス女王と見る根拠になるだろう。狂気のリア王は、狂気のエリザベス女王でなかったのか。若い頃は聡明な女王であったが、後半、寵臣エセックス伯との、恋愛もあり、かなりきまぐれになっていた。また、「女王エリザベスの晩年はウィリアムとロバート[・セシル]親子の連携プレイで政権を独占しているかのような状態であり、それが議会内の不和を生むほどであった」。(p.s. リア王エリザベス女王説は、もう20年くらい前に思いついてはいた。しかし、記憶がはっきりしないのだが、何かの本で指摘されていたかもしれない。とまれ、シェイクスピア劇を当時の史実として見ると興味深い。旧貴族の崩壊と新貴族(ブルジョワ化した貴族)との対立がはっきり見えるだろう。
http://kuni.milky-web.net/robart.cecil.html

p.p.s. また、思いついたが、シェイクスピアは薔薇十字の思想に触れていると思う。当時流行していたとは言え、シェイクスピアの作品には、魔術、魔術師への言及がたくさんある。また、思想内容から言っても、薔薇十字に近いように思える。松岡正剛氏は、グノーシス主義が起源ではないかと述べられているが、グノーシス=霊知は、不連続的差異論から言えば、イデア界の理性・知性(叡知、ソフィア)であるから、シェイクスピアが薔薇十字的というのは、単なる思いつき以上のものがあるだろう。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0698.html


http://www.tabiken.com/history/doc/C/C119R100.HTM
http://britannia.cool.ne.jp/cinema/title/elizabeth.html
http://kuni.milky-web.net/index.html
http://wiki.draconia.jp/index.php?%C0%A4%B3%A6%B0%AD%BD%F7%CA%AA%B8%EC%2F%A5%A8%A5%EA%A5%B6%A5%D9%A5%B9%BD%F7%B2%A6%2F08
http://kuni.milky-web.net/robart.cecil.html

真の作者は英外交官? シェークスピアで新論文 [産経新聞共同通信
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/491.html
投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 06 日 14:44:34: Mo7ApAlflbQ6s




 文豪シェークスピア(15641616年)の一連の作品は、実は教養の高い英国の外交官が書いたもので、政治的な理由で外交官の身分を隠すためシェークスピアの名を借用した。文学史を覆すような研究論文が10月末に出版されることが5日、分かった。

 英紙インディペンデントなどによると、論文をまとめたのは元ポーツマス大英語講師ら2人。作中の登場人物や記述を、関連する歴史文書と照合した結果、ヘンリー・ネヴィル(15621615年)という外交官がすべての作品を書いたとの結論に至ったという。

 論文は、ネヴィルが反逆罪で収監された際につづった文書が作品に使われていることや、ネヴィルが書いた手紙や外交文書での言葉遣いとシェークスピア作とされる劇や詩の表現に著しい類似性があることなどを指摘。

 また、シェークスピアが話せなかったフランス語で一部が書かれている「ヘンリー5世」は、ネヴィルが駐仏大使だった時の経験が反映されているとしている。

 元講師らは「作品が政治的な要素を含んでいたため、ネヴィルは混乱を避けるため、遠い親せきでもあったシェークスピアを表向きの作者に仕立てた」と説明している。

 シェークスピアについては不明な部分が多く、本当の作者は同時代の哲学者フランシス・ベーコンシェークスピアパトロンといわれたエリザベス一世自身とする説などが昔からある。(共同)

(10/06 01:35)

http://www.sankei.co.jp/news/051006/bun005.htm







資本主義の哲学:新自由主義的資本主義から差異主義的資本主義へ

資本主義とは何か。
マルクスは、交換価値を基礎とする商品と資本の関係に
資本主義の本質を見たと言えるのではないだろうか。
しかし、これは、今やまったく一面的である。
使用価値と交換価値との関係にこそ、資本主義の本質が
あるのではないだろうか。
技術革新は、使用価値を高める。
そして、生産コストを低くすることにより、
交換価値を低下させ、交換を活性化して、
より多い利潤を得る。
しかし、これを実現するには、市場の公正化が必要である。
ここで整理しよう。
使用価値とは、商品の差異である。そして、交換価値とは
連続・同一性である。ここには、本質的な矛盾がある。
差異は差異であり、連続・同一性にはならない。
しかし、ここには、差異⇒連続・同一性の数学がある。
これは、いわば、イデア界から現象界への転化と同じである。差異的個体を、現象界的連続・同一性のシステムに変換するのである。つまり、差異創造と連続・同一性構造との矛盾構造が資本主義である。連続・同一性構造・システムは、当然、量的であるから、数字のリアリズムが支配する。新自由主義はこれに根ざしていると言えよう。しかし、これは一面的である。差異的創造がなければ、資本主義は成立しないのである。つまり、新自由主義は、資本主義としては不十分なのである。差異的志向を組み込まなくては、新自由主義では、行き詰まるのである。(だから、必然的に、ポスト新自由主義である。)では、どうすればいいのだろうか。それは、イデア界から現象界への転化の構造を真似ればいいのである。つまり、差異、不連続的差異を肯定することである。これにより、連続・同一性が形成されるのである。
 結局、差異性、不連続的差異性、イデア界を組み込むことが必要なのである。資本主義に差異、不連続的差異、イデア界を組み込まないといけないのである。これで、資本主義は完璧となるだろう。では、具体的には、これは何か。これは、差異共存主義である。差異をそのまま肯定することである。すなわち、差異的民主主義である。新自由主義の民主主義とは、一般形式の民主主義であり、差異的ではない。ここが問題である。一般民主主義ではなくて、差異民主主義に変換する必要があるのである。これは、政治・社会・文化の問題である。差異的共立主義である。差異共存主義である。これを、現在の民主主義に取り入れる必要があるのである。これにより、自由主義的資本主義は、差異主義的資本主義に転換する。ポスト新自由主義である。これは、人類革命でもある。人類進化でもあるだろう。これには、人間の覚醒が必要である。私説でいえば、イデアルネサンスである。イデア界を肯定することである。これで、認識・知性・哲学革命が起こるのである。これにより、イデア界的資本主義が完成するだろう。