メディア界の連結力学・構造について

メディア界の連結力学・構造について


メディア界の構造について、精緻化する課題が残っている。ここで、また基礎から考えていこう。

不連続的差異論の基本構成:
イデア界//メディア界//現象界


イデア界:d1/d2/d3/・・・/dn (dkは、不連続的差異であり、/は境界である。)


メディア界:d1〜d2〜d3〜・・・〜dn(〜は連結とゆらぎを表わす。)


現象界:d1ーd2ーd3・・・ーdn(ーは連続・同一性化を表わす。)


不連続的差異論の合作者であるODAウォッチャーズ氏は、不連続的差異(これから、単に差異と呼ぶ)が、1/4回転・90度回転して、メディア界を形成すると述べた。つまり、境界が消失したような状態となり、差異が連結するのである。このイデア界の事態をガウス平面で考えるのである。
A(a+0i)が90度回転して、B(0+ai)となる。ここで、いつものように直観から考察したい。
 90度回転とは、いわば、差異の境界の位置が変更されるのである。それまで、差異と差異とを隔てていた境界が別様に作用するのである。即ち、境界を押し出すようにして、境界を「連続」・「連結」化するのである。そう、差異群は、この境界連続・連結化によって、連続・連結化されるのではないだろうか。差異そのものは、不連続であるが、メディア界において、境界連続・連結が生じるので、連続・連結化という擬制・仮構が形成されるのである。つまり、境界の「構造変換」によって、連続・連結事象が生起するのである。思うに、この境界構造変換に、「存在」生成の核があるのではないだろうか。イデア界の境界は、無限速度をもつだろう。しかし、境界構造変換によって、境界は無限速度から有限速度へと転ずるのではないだろうか。これが、光の発生ではないだろうか。イデア界においては、いわば超光であるが、境界において、超光から光(ないし原光)へと変ずるのではないか。減速するのである。つまり、差異と境界とが連続・連結的に不可分になるのである。この連続・連結化が、有限化ということになろう。即ち、実数になるのだと思う。それまで、複素数であった差異が、実数になり、量化されるのだと思う。それはまでは、虚数的存在であった差異が、実数化されるのだと思う。ここで、私の作業仮説ないし想像を言えば、イデア界・ガウス平面での90度回転とは、x軸から直交するy軸へと志向する形ではあるが、実は、境界が連続・連結化するから、新しい連続・連結軸がx軸、y軸と直交的に形成されるのではないだろうか。それをz軸としよう。だから、y軸からz軸への変換がメディア界化であろう。というか、現象界化であろう。つまり、x軸、y軸のガウス平面において、たとえば、y軸が境界になるが、それは、同時に、z軸へと転換するのである。このy軸⇒z軸がメディア界である。だから、y軸 ⇒z軸が虚数から実数化生じる過程であろう。これは、「無」から「有」の発生である。キリスト教天地創造は、ここを意味するのだろう。光有れとは、正にここのところだろう。
 さて、問題は、この実数化である。イデア界において、差異は、境界を隔てて、いわば、無限速度で共立している。しかし、これが、90度回転で、連続・連結化すると、差異群と境界とが連続体となる。これが、光速度一定の意味にもつながるだろう。思うに、境界が強度・時間となり、差異連続体が空間となるのではないだろうか。そして、前者は、光であり、光速度一定である。
 ここで、少し発想を展開させると、z軸は時間軸ではないか。連続・連結された境界がz軸であるからだ。そして、この時間軸は、いわば有限化された無限である。無限速度が有限化されたものである。これが、光速度一定の意味ではないか。
 では、さらに展開すると、差異連続体が空間であるが、それは、空間軸はどこにあるのだろうか。x軸、y軸、z軸(時間軸・光軸)まで来た。空間軸は、考えると、差異連続体であるが、差異は垂直力と水平力があるから、z軸に直交するα軸とβ軸が生起するだろうし、そして、現象は捩れとなるから、捩れの空間を表記する必要があるだろう。これが、γ軸ではないか。すると、z軸、α軸、β軸、γ軸の時空四次元が形成されるだろう。これで、結局、6次元である。
今はここで留めたい。






霊やスピリットを解明する:イデア界とメディア界の境界問題

霊やスピリットを、不連続的差異論から分析したらどうなるだろうか。これは、やはり、イデア界とメディア界の境界思考特有の混乱だと思う。つまり、ドゥルーズ哲学の混乱と同じことが言えると思う。あるいは、中沢新一の思考の混乱と。 即ち、イデア界とメディア界の境界とは、不連続性と連続性との境界であり、ここで、両者の混同がほぼ必然的に生起するのである。輪廻転生という思想もここで発生する。魂の不死という観念もここで発生する。中沢新一ドゥルーズを高く評価するのは、実は、両者の発想の起源が同じだからである。 
 では、ここで、問題を展開するならば、個とイデア界との関係はどうなるのかということが提起される。もはや、輪廻転生はない。では、何が残るのか。それは、イデア界が残るのである。つまり、イデア界の差異が残るのである。現象界は生成変化し、メディア界は、おそらく類型(原型)的多様体である。両者は、無常である。しかし、ただ、イデア界だけが不変である。個とは、死に、消滅する。しかし、イデア界の差異に還元されるのだろう。悪人も善人も、ともども、共通のイデア界に還元される。ここが、宗教で言われる天国、極楽、楽土、浄土、常世等々であろう。 新たな個が生まれるだろう。タルコフスキーの『惑星ソラリス』におけるハリーのように(この惑星ソラリスとは、ほぼイデア界のことだろう。しかし、メディア界的な面もあると思う。)。この個とは何か。それは、メディア界を介しているから、以前存在した個と似るのである。しかし、それは、類型・原型的類似に過ぎない。個を創るのはイデア界であり、根源的には、個は共通普遍である。(かつて、ユダヤ神秘思想のアダム・カドモンに言及したが、アダム・カドモンとは、やはり、イデア界とメディア界との境界の人間表象だろう。)正確に言うと、個は、解体するのである。不連続的差異に解体するのである。ドゥルーズが前個体性と言ったが、確かに、イデア界という前個体性へと還元されるだろう。コギトとは、根源的には、イデア界的である。それは、現象界やメディア界から見たら、不可思議なものである。「わたし」とは、非「わたし」である、「わたし」でないものである。それは、超越論的世界の存在である。キルケゴールが言った無限と有限とのパラドックスとは、正しい。永遠であるが、永遠ではない。 
 さらに考察を展開すると、イデア界からメディア界への転換方法が解明されないといけない。無形からどうして有形・類型・原型が生起するのかということに換言される。これは、メディア界の連結構造の問題である。ここから、自然現象が発生するのである。(プラトンが言ったコーラであるが、後で触れたい。)この問題は既に解決されているのかもしれない。差異が連結するときに、メディア界の力(メディア力と呼ぼう)が働く。それは、らせん運動的な力である。また、イデア界の絶対値の世界から変換して、極性力が生じて、連結する。そして、この極性をもつメディア力・連結力とは、一種共鳴力であるから、波動的である。そして、波動は、形態形成的であるから、これで、メディア界のもつ類型・原型性が説明できるだろう。波動的パターンである。おそらく、これで、いわゆる、オカルト的な事象も説明できるだろう。占星術、易学等々。つまり、メディア界のもつ極性連結波動力が形態形成するのである。しかし、注意するべき点は、波動力と差異とが不可分となっていることである。これは、また、量子状態であろう。






プラトンの洞窟の比喩、阿弥陀如来(無量光如来)、イエスの光:イデア界的理性へ


プラトンの『国家』には、有名な洞窟の比喩の箇所がある。それは、人間は、洞窟のスクリーンに映る(投影される)影を見ているのに過ぎず、光点とその本体(イデア)を見ていないというものであるが、さらに、洞窟を抜け出ると、太陽が燦々と輝いているという。この太陽が、善のイデアである。 
 阿弥陀如来(仏)は、アミターバと呼ばれる。それは、無量光である。無限の光であるから、肉眼の太陽ではありえない。通常の太陽は、寿命がある。有限である。阿弥陀如来とは、プラトンの太陽に近いだろう。
エスは、この世の光とされた。キリスト教には、ゾロアスター教の影響があると今では考えられている(最後の審判)。しかし、ゾロアスター教の火は、イエスの光に通じているのではないか。(また、ヘラクレイトスの火も、ここと関係すると思う。)ローマ帝国において、キリスト教は、ミトラス教(太陽信仰)と覇権を争った。だから、やはり、太陽と関係するのである。しかし、イエスの光も永遠の光だから、これも、プラトン阿弥陀如来と関係すると考えられる。
 以上の三つの「光」を、不連続的差異論から考えると、それは、イデア界の「光」と考えられると思う。イデア界は、無限速度をもって、不連続的差異が境界を隔てて共存していると考えられる。無限時空間・無限原時空間である。このイデア界全体が、以上の「光」=「太陽」と考えることができるだろう。つまり、イデア界という絶対的普遍界を、プラトン大乗仏教、イエス教は、個別に志向したと言えるだろう(参照:万教帰一)。つまり、同じものを三者三様に名づけたこととなるだろう(参照:ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性)。
 では、合理主義、理性主義とは何か。「初めにロゴスありき」。ヘラクレイトスのロゴス。プラトンイデアや理性。デカルトの理性主義。フッサールの理性主義、ホワイトヘッドプラトン主義、ロジャー・ペンローズプラトン主義。それは、思うに、三種類あるのではないか。イデア界の理性、メディア界の理性、現象界の理性。近代科学は、現象界の理性である。そして、「ポストモダン」とは、メディア界主義であったろう。啓蒙思想フランス革命とは、イデア界に発動源がある現象界的理性主義のことだろう。しかし、イデア界という超越論的次元を排出・隠蔽したので、一種反動性をもっていたと言えるだろう。つまり、イデア界を非合理性として排出・隠蔽したと考えられる。先にも触れたが、民主主義は、イデア界から発していると考えられる。
 結局、今日、三種類の理性が必要であると言えるだろう。カントの理性批判とは、三種類の理性の差異を意味し、また、イデア界的理性は、実践理性として捉えられて、理論理性にはできなかった。これが、カントの限界である。また、有名な物自体とは、不連続的差異論から見れば、メディア界における差異連結態のことである。
 問題は、三種類の理性をどう意識・知性化するかである。イデア界とは、単に知性というよりは、身心的なものであり、それは、現象学的還元や、「解脱」が必要である。そう、一種宗教・神秘性を帯びるとも言えよう。ここがポイントである。これを信仰にするのではなくて、いわば、理性の身体にしなくてはならない。理性身体としてのイデア界である。あるいは、身体的理性と言ってもいいだろう。だから、スピノザ哲学やニーチェ/ロレンス哲学に近いのである(D.H.ロレンスを哲学者と考えている)。あるいは、東洋的身体的理性である。 
 では、イデア界的理性は、一種非合理性を帯びていないのか。確かに、知性が欠けると、非合理性を帯びてしまう。思うに、イデア界的理性とは、強度のある理性である。それが、過剰になると、ニーチェのような力の意志となる。正しくは、差異共存志向性という力・強度のある理性と言えるだろう。これが、イデア界的理性の様相だと思う。(p.s. 健康とは、イデア界の力が基盤ではないのか。毎日、睡眠を取るとは、イデア界の力を得ることではないのか。また、今日、精神的病気が多いのは、イデア界の力が足りないからではないだろか。また、「気」とは、これまで、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の力ではないか。さらに言うと、量子論は、メディア界的次元を扱っているが、しかし、現代宇宙論は、イデア界的次元を扱っているのではないか。超ひも理論とは、イデア界を対象にしていないか。等々。)

p.s. 「ポストモダン」がメディア界的理性ならば、イデア界的理性を説くことは、ポスト・「ポストモダン」であろう。ポスト・メディア界、脱メディア界である。イデア界理性主義とは、グローバル・ワールドと対応するだろう。そう、ネオ・コスモスと言ってもいいだろう。ネオヘレニズム・エポックである。ネオ・コスモポリタン。新宇宙=世界民。

参考:
阿弥陀如来(アミターバ、アミターユス)
無量光如来(アミターバ)と無量寿如来(アミターユス)、という2つの仏が合わさって生まれた如来だと言われています。また、別に無量如来(アミタ)という仏がいたという説もあります。その名の通り、「無限の光を放ち、時間を越えた」という意味の如来です。「阿弥陀」は音訳した表現です。」
http://www.e-butsudan.com/02_butsuzou_2.html