差異聖霊自由主義地球資本主義エポック:冷戦の終了、グローバリゼー

差異聖霊自由主義地球資本主義エポック:冷戦の終了、グローバリゼーション、新自由主義とは何か

近代主義とは何であったか。あるいは、近代西欧主義とは。ルネサンスプロテスタンティズムの二重構造が近代主義と言えよう。持論を繰り返すが、差異が近代の震源であり、それが、最初に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、ギリシアの差異経済文化、そして、イスラムの差異経済文化を継承したものである。しかるに、西欧のプロテスタンティズムが勃興し、これが、西欧資本主義を駆動させる。即ち、ルネサンス的差異経済文化性は、いわば、無意識へと排出・隠蔽されるのである。しかし、二重構造性は保持されていると見るべきである。
 簡単に言えば、ルネサンスキリスト教の二重構造経済文化が西欧近代主義である。そして、キリスト教のもつイエス教が、連続・同一性=水平的平等性を生み、平等民主主義、近代的民主主義、社会主義共産主義、左翼を生んだのである。そして、他方、キリスト教一神教性・ヤハウェ教性が、自由主義経済を進展させてきたのである。しかし、これは、植民地主義帝国主義、世界戦争という人類的災厄をもたらしたのである。結局、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズム、近代的キリスト教のもつ弁証法、父と子との弁証法が、世界を社会主義と資本主義に分離してきたのである。これが冷戦であり、55年体制である。しかるに、これが、周知である、89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、92年以降の中国の改革開放路線の進展によって、大崩壊・大解体したのである。ビッグバン、グローバリゼーション、新自由主義の発動が起こった。
 この出来事は、結局、西欧近代主義の破産・終焉を意味すると考えられる。近代主義の終焉である。それ以前に、思想領域では、フランス現代思想と呼ばれたポストモダンポスト構造主義が流行したが、それは、基本的には、西欧近代主義の批判的解体を志向したのであり、社会主義共産主義の大崩壊・大解体を、ある意味で、予見したものを言えるだろう。しかしながら、史的大事件後、思想としてのポストモダンポスト構造主義は衰退した。これは、思想として、不徹底・未成熟であったからである。つまり、簡単に言えば、近代的合理主義の批判ではあったが、近代主義の連続主義を残存させていたからである。不徹底な近代主義批判であったからである。(不連続的差異論は、これを徹底して、絶対的な近代主義批判・解体を行なったと考えている。テーマ「不連続的差異論の誕生」のブログを参照。)
 さて、グローバリズム新自由主義というポスト近代主義とは、理論化するとどうなるだろうか。それは、不連続的差異の経済ということになるだろう。市場原理とは不連続的差異の新しい連結であり、創造的生産/消費主義である。これは、不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の境界の出来事である。イデア界のデュナミスの新しい連結であるメディア界の創発・創出(エネルゲイア)である。これは、絶対的差異から発しているから、近代主義徹底的に破壊するのである。官営的連続・同一性主義に対する新自由主義の破壊主義である。
 これは、キリスト教的三位一体の用語で考えると、父は資本主義、子は社会主義、官営主義、聖霊は不連続的差異主義である。そして、西欧近代主義において、聖霊=不連続的差異主義が排出・隠蔽されて、潜在・無意識化されたのである。しかし、この聖霊こそが、イデア界であり、不連続的差異であり、これが、資本主義の震源・駆動・起動源である。そして、グローバリゼーションとは、顕在的にはキリスト教の父・一神教ヤハウェ教、プロテスタンティズムの勝利であるが、しかし、これは、子を破壊しているのある。つまり、キリスト教の崩壊・解体を意味しているのである。キリスト教において、子がなくなれば、それは、キリスト教の死である。神の死である。父の勝利とは、父の死である。これは、どういうことかと言えば、資本主義は、真実在的には、聖霊=不連続的差異によって駆動されているのであり、それが、グローバリゼーションにおいて、父の子に対する勝利となって顕在化したのである。つまり、資本主義は、近代主義の枠を解体したのである。つまり、プロテスタンティズムという仮象・仮装・仮面を突き破ったのである。地(ぢ)のルネサンスが噴出したのである。聖霊・不連続的差異が噴出したのである。換言すれば、父と子の弁証法である近代主義が破壊されたのであり、その弁証法の彼岸である聖霊が出現したのである。聖霊グローバル・エポックである。不連続的差異のグローバル・コスモス・エポックである。そう、絶対的ポスト・キリスト教=西洋文明のエポックである。そう、前古代、古代、中世がらせん的に回帰するのである。思うに、EUもそういう意味合いがあるのではないだろうか。すると、東アジアもそういうことになるだろう。東アジアに前古代、古代、中世がもどってくるのである。聖霊・グローバル・コスモス的超新時代である。
 新自由主義に相応するように新社会民主主義自由社会民主主義が発動されるだろう。グローバル・コスモス・ルネサンスのスーパー・エポックである。







イデア・メディア境界とメディア界の相違点について:ポスト近代的自由社会民主主義と創造的消費主義

問題点に触れると、イデア・メディア境界とメディア・現象境界の違いを精緻に解明することである。今、図式化すると、

イデア・メディア境界

d1/d2/・・・/dn
・・・・・・・・・・・・・
d1〜d2〜・・・〜dn



メディア・現象界境界

d1〜d2〜・・・〜dn
・・・・・・・・・・・・・
d1≅d2≅・・・≅dn

(尚、dは不連続的差異の記号である。)

となり、明らかに異なる。宗教事象は、やはり、イデア・メディア境界事象と見るべきだろう。自由主義に関して言うと、それは、本来は、イデア界から起動している。それが、近代主義となると、思惟と延長との二元論が支配的になり、イデア界を喪失する(cf. ハイデガーの存在の忘却)。これは、イデア・メディア境界を喪失して、メディア・現象界境界が基礎となったということだろう。つまり、メディア界が思惟であり、現象界が延長である。そして、この近代主義に対する批判が様々な領域・分野でなされる。ニーチェは、イデア・メディア境界を超える形で、不連続性を説き、フッサールは明確に、イデア界の差異の志向性を説いた。そして、ポスト構造主義デリダドゥルーズフーコー他)は、メディア界の存在を解明した。だから、近代的自由主義からポスト近代的自由主義への転換が現代的である。
 近代的自由主義は、フランス革命の自由・平等・博愛でわかるようにキリスト教的価値観の世俗化である。これは、キリスト教の連続・同一性主義によっているのであり、社会主義共産主義もこれを基盤にしていると言えよう。ここには、差異が欠如している。つまり、近代主義は、差異が欠落しているのだ。近代的自由主義とは、自己撞着した思想である。なぜなら、自由とは、本来、差異に原点があるからである。思うに、欧州の個人主義は、キリスト教からではなくて、古代ギリシアから発してると思う。キリスト教からの「個人主義」とは、連続・同一性主義である。つまり、自我主義である。これが、プロテスタンティズムになると言えよう。イタリア・ルネサンスは、表面的にはキリスト教的な表象があるが、原理は、やはり、教科書通り、古代ギリシアである。(もっとも、古代ギリシアと言っても、複合的である。イタリア・ルネサンスも複合的であり、後で、できれば、触れたい。)つまり、欧州個人主義は、古代ギリシアの原理であり、キリスト教的平等主義とは異なるのである。つまり、近代的自由主義は、キリスト教化されているのであり、個人主義と混淆しているのである。そして、ポスト近代主義が、脱キリスト教化を図ったと言えよう。差異へと志向したのである。しかし、それは、ポスト構造主義の限界のために、頓挫した形になったが、不連続的差異論によって、ポスト近代主義が整合的に徹底貫徹化されたと言えよう。
 とまれ、近代的自由主義は、一方で、社会主義社会民主主義を生んだと言えよう。しかし、これが、公共事業型財政破綻をもたらしたのである。つまり、近代主義の破産が今日明瞭なのである。そして、新自由主義であるが、これは、ポスト近代主義である。市場原理主義とは、差異と差異との交換を前提にしている。差異の理解を前提としていると言えよう。ここでは、近代主義である連続・同一性は排されている。だから、経済的には、新自由主義は、差異的な自由主義という原則に適っている。 
 結局、ここで、解体される「社会主義」的政治の穴をどうするかが、今日の社会・政治的問題である。ポスト近代的社会的自由主義である。新自由主義は、思うに、イデア・メディア境界の経済である。メディア・現象界的連続・同一性に対する反動性がある。それは、小泉首相の二律背反主義、弁証法力学を見ればわかるだろう。とまれ、本源は、イデア界の不連続的差異にある。だから、その穴を埋めるには、不連続的差異的自由主義でなくてはならない。それは、経済的次元とは別の社会・政治的次元で形成されなくてならない。それは、ポスト近代的自由社会民主主義である。このための政治原理、政策が必要となる。それは、差異的民主主義である。差異共存的民主主義である。そのためには、差異共存共創のための消費が必要となる(これは、投資とすると、マイナスになるから、消費にしないといけないだろう、出発点として。)即ち、自由社会民主主義、差異自由主義のための消費、差異自由社会創造的消費が必要である。これが、ポスト近代的自由社会民主主義の政治社会である。

p.s. 新自由主義は、ポスト近代主義ではあるが、イデア・メディア境界を起点にしているから、反動性をもっているのである。つまり、一神教である。多神教を排斥するのである。多神教の問題もあるが、多神教とは、思うに、イデア・メディア境界の事象ではあるが、受動性、純粋受動性のために、イデア界を直視(「霊視」)していると思う。イデア界の無数の不連続的差異を直視していると考えられる(八百万の神々)。そして、イデア界とメディア界と現象界が連続化するのである。連続的共存性がある。一神教ヤハウェ教)は、これをすべて排斥しようとする。なぜならば、矛盾同一性があり、一神教は垂直力に駆り立てられて、多神教を否定しようとするのであるが、しかし、実際のところ、一神教多神教は矛盾同一なのである。つまり、イデア・メディア境界において、水平力が作用すると多神教となり、垂直力が作用すると一神教となるのである。ただ、イデア界の力学に拠るのである。この弁証法を超える必要がある。新自由主義が、新しい多神教と相補性となればいいのである。経済と社会との要である政治が、差異自由主義、ポスト近代的自由主義に立てばいいと考えられる。不連続的差異的自由主義的政治の体制にすればいいのである。

p.p.s. 近代的自由主義の問題は、哲学的には、デカルト哲学のコギトの位置づけに関係する。自由主義は、本来、差異を震源としているのであり、近世において、イタリア・ルネサンスがその発動である。そして、哲学的表現はかなり遅れて、デカルト哲学のコギト主義となったと言えるだろう。しかし、デカルト哲学は両義的である。確かに、近代的二元論の創始者であると同時に、ポスト近代主義の原点でもある。つまり、特異性の哲学である。問題は、コギトの「われ」とは何かである。この「われ」は、近代的合理主義の「われ」ならば、近代的自我ということであり、近代的民主主義に通じていくだろう。しかし、特異性としての「われ」ならば、それは、差異としての「われ」、不連続的差異としての「われ」であり、それは、ポスト近代的自由主義に通じるのである。つまり、特異性としての「われ」とは、イデア界の「われ」である。ニーチェ的な「われ」である。デカルトは、後者の「われ」の端緒を基盤として、前者の「われ」を構築したと言えるだろう。近代主義は、後者を忘却していくことになるのである。そして、ニーチェフッサールは後者を探求することなり、真のポスト近代主義を打立てたと言えるのである。この偉業が、一般の人に伝わって、理解されていないのは極めて遺憾である。これは、哲学研究者の怠慢があるのかもしれないが、フッサール哲学のあまりの晦渋さにも要因がある。また、現象学という名前にも、問題があると思う。本当は、超越論的現象学である。







問題点:経済的差異論と社会的差異論の接点と相補性

市場原理に任せるというのは、差異と差異との交換を可能にすることである。経済自由主義である。
しかし、これとは、別に、政治・社会次元の問題がある。新自由主義は、小さな政府というが、経済に関して、政府の関与を最小にするということではないか。だから、その点は、評価できよう。これは、経済的差異論である。そして、これとは、別に、政治・社会的差異論が必要である。これは、社会的民主主義の問題である。差異である国民の必要は多様である。基本的にはその差異に適応するような政治・社会制度が必要である。
結局、経済的差異論と社会政治的差異論が衝突する。新自由主義社会民主主義である。思うに、これを相補性にできないだろうか。今は二項対立である。私は、差異共存主義を主張しているが、それは、そのような意味をもっている。思うに、公共事業に問題点があるのではないか。福祉・医療等々は、社会・政治差異論が適用される領域であり、そのための支出が必要になる。結局、財源である。不要な公共事業を削減して、それで、福祉・医療等をまかなうことが必要ではないか。また、創造的活性化のための創造的消費が必要である。思うに、新自由主義社会民主主義は、接点が生じるように思う。妥協ではなくて、自由主義という共通の原理からである。自由主義原理に拠る経済的差異論と政治・社会的差異論との相補化である。結局、社会主義的、官営的資本主義が害悪なのである。結局、自由社会民主主義である。






不等価交換としての経済:差異と差異との不等価交換:拡大的投資主義から創造的消費主義へ

マルクスは、交換価値の普遍性を説いた。しかし、これは、擬制であろう。交換価値は、シミュラクルである。問題は、等価とは何かである。誰が、等価を決めるのか。それが、市場であると、資本主義は言う。交換とは、結局、不可能の実現である。不連続な差異と不連続な差異とを等価と見做して、交換するのである。疑似等価交換である。問題は、この等価を決定する市場の力学である。力をもつのは、資本家である。投資家である。あるいは、消費者である。宣伝である。また、創造的能力である。
 ここで、思考実験すると、例えば、販売を促進しようと努力するとしよう。そのとき、消費者はどういうものを望んでいるか。どういう値段がいいか。どう宣伝すればいいか。等々。このとき、知恵が必要である。知恵とは、この場合、アイデア力、観念力、想像力、知識力等々である。多様な知識や経験を活用して、ヴィジョンを描く。デザインである。結局、ここには、創造的な発想が必要である。これが、資本主義に欠かせない。資本創造主義である。しかし、そして、とても売れて、たいへん利益があがるとしよう。得た交換価値をどうするかである。必要経費様々あるだろう。問題は、創造から生まれた利益・交換価値をどう使用するかである。これを、創造的価値のために使用しなければ、その企業は衰えるだろうし、資本主義自体も衰退するだろう。ソニーを見よ。つまり、創造力の開発が必要なのである。創造性に交換価値を使用すべきなのである。単に、交換価値の増殖のために用いれば、それは、早晩、衰退するだろう。バブルを見よ。交換価値を創造価値のために消費することである。投資ではなくて、創造的消費である。これによって、差異が発展するのである。
 この考え、即ち、差異創造消費論を適用するならば、資本主義は、変容するだろう。マネーゲームではなくて、創造的消費経済。創造消費資本主義である。これは、これまでの公共投資ではない。いわば、マイナス型の資本主義である。しかし、このマイナスが、プラス循環を生む。というか、カオスからコスモスへと進展するのである。カオス型資本主義からコスモス型資本主義である。エントロピー的資本主義から、ネゲントロピー(逆エントロピー)的資本主義である。成長的投資主義ではなくて、創造的消費主義である。このための、方策が必要であろう。創造消費主義。これによって、おそらく、さまざまな問題が解決するのではないだろうか。マイナスの発想が、秩序を生む。創造消費型政策が必要だ。これは、創造差異主義である。創造的差異共存主義である。創造的英知が秩序的資本主義をもたらすだろう。







イデア界とイデア・メディア境界とメディア界の区別:神の死と聖霊エコミューン

うまくまとまらない。問題点は、イデア界とイデア・メディア境界とメディア界を明確に区別していないことにあるだろう。ここで、整理しよう。

1.イデア界の回転がある。
2.イデア・メディア境界において連続性が発生する。
3.メディア界は基本的には、連続性の領域である。

宗教表象は、イデア・メディア界IMBにおいて生じると考えるべきである。だから、イデア界の事象は、そこで表象される。1/4回転は、IMBにおいて多神教となる。2/4回転は、IMBにおいて、一神教となる。もっとも、ここでは、IMBからイデア界が志向される。そして、3/4回転では、 IMBにおいて、キリスト教となる。これは、イデア界から現象界への志向である。そして、4/4回転では、IMBにおいて、「新自由主義」になる。しかし、これは、一時的な表象である。
 問題は、IMBにおける弁証法が形成されることである。これは、人間の知覚構造に起因すると言えるだろう。人間の知覚は、メディア界に起因するから、基本的には、せいぜい、IMBにしか達しない。とまれ、「新自由主義」は、やはり、IMBの弁証法をもった作用である。これまでの、連続性を否定するのである。社会主義社会民主主義、官営資本主義を否定するのである。しかし、本源は、イデア界であり、差異共存志向性である。これが本当の原動力である。これが、反動的に、弁証法的に、新自由主義となるのだ。本体が認識されていないのである。
 これは、近代主義の問題である。近代的二元論の問題である。思うに、3/4回転のイデア・メディア境界IMBにおいて、連続作用が生起するが、このとき、思うに、イデア界が連続・同一性化されるのではないか。ここは、キリスト教の発生期である。つまり、イデア界が連続・同一性かつ自我化される。ここで、思うに、不連続的差異が根本的に喪失されるのだ。父=子。イデア界=現象界。つまり、現象界の知覚が基礎となるのだ。イデア界がここで喪失されるのだ。つまり、キリスト教によって、イデア界が喪失されるのである。だから、一神教である新自由主義は、イデア界的次元の意識をもっていない。現象界のみである。少なくとも、イデア・メディア界の境界における弁証法の反動になっているが、それは、イデア界の共存性を欠いているのである。つまり、新自由主義は、聖霊=差異共存志向性を欠いている。聖霊とは、フッサールの相互主観性であろう。新自由主義は、本当に、闇である。ブラックホールである。壁を超える聖霊が不在である。キリスト教によって、聖霊が排出されている。これは、近代主義で決定的になった。
 しかし、現代哲学は、イデア界を説いているのである。これは、聖霊の風を意味しよう。当然、現代は、聖霊の時代である。これを現象化しないといけない。聖霊の息吹、聖霊実践。聖霊共存自由経済。新しい社会民主主義があるならば、ここからしかないだろう。神は死んだのであるから。







子の国の時代、キリスト教の時代とは何か:聖霊の国の時代・ポスト西洋文明=新地球文明に向けて

キリスト教とは不思議な宗教である。三位一体という連続・同一性論は、脱構築しないといけない。それも、単に脱構築の戯れだけではなくて、分解しないといけない。つまり、脱構造化、脱連続・同一性化しないといけない。思えば、フィオーレのヨアキムの三時代論とは、それに当たるだろう。脱三位一体論である。ポスト三位一体論である。
 とまれ、キリスト教は、三つの不連続的差異を内包していると言うべきである(ポスト・キリスト教)。

1)ユダヤ教ヤハウェ教):一神教の本家本元であるが、しかし、実は、多神教と矛盾同一にある。
2)イエス・キリスト教(イエス教):これは、実は、イシス・オシリス神話等と共通である。死んで甦る神である。だから、異教、多神教、女神教である。
3)聖霊教:これは、グノーシス主義(ソフィア主義)、密儀・秘儀、秘教・密教、天使・妖精・精霊等と関係する。プラトン主義と通じる。

この三つの不連続的差異が「野合」しているのがキリスト教だろう。たいへん、いかがわしい。邪教である。「新興宗教」である。とまれ、これが、西洋文明の根幹なのである。これは否定できない。そして、西方教会はフィリオクェ問題で、聖霊を軽んじてしまった。三層性が解体したのである。とにかく、1と2の要素が西洋文明の構成要素である。1は、資本主義であり、2は、社会民主主義である。そして、近代西欧は、実は、3の次元を喪失したのである。これは、不連続的差異論が明らかにしている。現代哲学は、この次元の復権である。ニーチェフッサール震源である。今日、新自由主義の勝利とは、1の勝利であり、2が衰退・崩壊したことを意味する。ヤハウェ教の勝利である。しかし、これは、黙示録的終末論に向かうのだ。アンチ・キリストの時。新自由主義がアンチ・キリストである。子が敗北したのである。この点を不連続的差異論から解明してみよう。
 結局、西洋文明とは何かという問題になる。これは、不連続的差異論の視点による私見では、イデア界とメディア界の境界、imbに西洋文明の起源があるのではないだろうか。ここは、不連続的差異の共存性があり、差異の連結が生じ、両者の矛盾同一性(西田哲学の絶対矛盾的自己同一)が生じている。わかりやすくするために、図式化しよう。

A) d1/d2/d3/・・・/dn (イデア界である。/は境界であるが、同時に共存・共立性を意味する)

B) d1〜d2〜d3〜・・・〜dn (メディア界であり、差異が連結・連続化する。〜は連結・連続とゆらぎを意味する。)

C) 差異共存と差異連結・連続とが矛盾的に同一化している(絶対矛盾的自己同一)

A〜C の事象がイデア界とメディア界の境界、IMB、イデア・メディア境界で生起している。ここでキリスト教を当てはめれば、父はCであり、子はBであり(ほんとうは、Dとして現象界も加えるといい)、聖霊はAであろう。そして、Cは弁証法の世界であり、二項対立・二元論・二律背反の領域である。西洋は、近代以前までは、このバランスを取っていたが、近代以降、Aを喪失して、BとCの併存となった。Bが社会民主主義社会主義であり、Cが資本主義である。そして、Cは、グローバリゼーション、新自由主義に帰結した。これは、実は、私見では、イデア界の差異の発動から生じている。差異の不連続性から生じている。つまり、Bの水平的連続性の破壊である。つまり、新自由主義の根源として、Aが考えられるのである。ただい、Aの不連続性が強化される形となり、共存性が欠落しているのである。つまり、先にも述べたが、イデア界の力の変化があるのである。水平的共存から垂直的独立へと極性変化したのである。つまり、新たな差異力学の発動である。差異の垂直力への変動である。これは、子の時代(社会民主主義)の終焉はもとより、父の時代(新自由主義)の終焉でもあるだろう。つまり、イデア界の新しい変化があるのである。即ち、差異共存性の時代である。つまり、近代西欧という、イデア・メディア境界中心の時代が、イデア界の垂直的変化によって、終焉したということではないだろうか。つまり、イデア界の活動として新自由主義が発動したと考えられるのである。これは、天使を内在した悪魔、超悪魔である。アンチ・キリストである。近代西欧、イデア・メディア境界時代が、新しい不連続的差異のイデアエネルゲイアによって、震撼させられ、終焉期に達したのではないか。「天」を震源とする天震である。地殻変動というよりは、天界変動である。ただ、これは、まだ、イデア・メディア境界に囚われているので、反動性をもち、破壊的なのである。アンチ・キリストなのである。天界の新たな発動であるが、それが、捩れて、裏返しになって、反動となって、アンチ・キリスト、超悪魔となっているのである。 
 ということで、やはり、聖霊の国の時代である。これは、ポスト新自由主義聖霊自由共存主義である。ポスト西洋文明であり、新地球文明、聖霊の地球の時代である。実際どうなのかは、後で、考察したい。







ポスト・一神教としての聖霊の時代:聖霊資本主義?:聖霊自由共存エコミューンへ向けて

イタリアのフィオーレのヨアキムは、宗教の三時代説を立てて有名である。父の時代、子の時代、そして、聖霊の時代。子の時代とは、キリスト教の時代である。キリスト教の時代とは社会主義の時代ではないか。ならば、新自由主義一神教であり、父の時代にもどったことになる。しかし、私見では、新自由主義は、過渡期である。父と子とを振り子の両極とすると、新自由主義は子から父へ揺り戻ったことになる。しかし、実はらせん的回帰である。新しい子の時代が始まる。しかし、新しい子とは、聖霊であろう。もはや、イエス・キリストがシンボルではなく、聖霊がシンボルである。聖霊とは何か。それは、共存性ということだろう。差異共存主義ということだろう。差異調和ということであり、イデア界的調和の時代である。思うに、ここにしか、新自由主義の軛から脱する突破口はないのではないだろうか。聖霊自由共存経済である。聖霊の時代。聖霊自由主義である。新新自由主義である。

p.s. ヨアキムに倣えば、新自由主義は、アンチ・キリストである。ブッシュや小泉がアンチ・キリストである。

参照
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003700939.html
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/yoakim.htm
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&num=30&hl=ja

ヨアキム・デ・フローリス Joachim de Floris 1145ころ‐1202

イタリアの神学者,聖書釈義家,修道会創設者。イタリア名はジョアッキーノ・ダ・フィオレGioacchino da Fiore。コゼンツァに生まれ,シトー会修道士となったが,パレスティナへの旅行後フローリス (フィオレ) に聖ジョバンニ修道院を創設し,フローリス修道会を始めた。これはイタリアにのみ知られ,17 世紀には消滅した。三位一体論と聖書解釈をもとに世界史を 3 期に分け,第 1 期は律法の下に俗人の生きる〈父の国〉の時代,第 2 期はキリストの下に聖職者が霊肉の間を生きる〈子の国〉の時代,第 3 期は自由な精神の下にヌルシアのベネディクトゥス以来の修道士が生きる〈聖霊の国〉の時代とした。この第 3 期 (第三帝国 ) には〈山上の垂訓〉が厳格に守られなければならないとされる。 ヨアキムはさらに,1260 年には《ヨハネの黙示録》14 章 6 節にいう〈永遠の福音〉がなり,教会制は終わって完全な霊的教会が誕生すると預言した。著作に《旧・新約聖書の一致》《ヨハネの黙示録注解》があるが,これらが禁書とならなかったのは,歴史解釈が比喩的であり,教皇を頂点とする教会制そのものの革命を意図してはいなかったからである。 1215 年の第 4 ラテラノ公会議は彼の説を異端としたが,フランシスコ会と厳修派シトー会には迎えられた。

泉 治典
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一神教ユダヤキリスト教)の帰結としての新自由主義とそれ以後

前に述べたことの繰り返しになるが、新自由主義一神教とパラレルであり、その官営資本主義への勝利は、いわば、多神教に対する一神教の勝利である。日本経済文化は、明治維新から一神教的になっている。多神教性は衰退している。先の衆院選挙は、ニッポン一神教の勝利である。ニッポン民衆の多くが、小泉ファッショ政府を支持したことは、やはり、小泉天皇を信奉しているということである。玉砕である。これから、自殺者がますます増加するだろうし、・・・。
 しかし、一神教の完全勝利とは、力学的に、次の段階を意味する。隠れていたものが顕在するようになるだろう。私見では、これは、イデア界の垂直的な不連続性の「モーメント」の作用(水平的共存への反作用)であり、水平的連続性を解消した。しかし、ここに新しい共存志向性が始動することになる。つまり、社会民主主義社会主義という古い連続的共存志向が滅びたのである。古い連続的共存志向が、不連続性の力学に対して、桎梏となっていたのである。不連続性の力学とは、資本主義の力学である。資本主義は差異から発動・駆動・起動していると私は述べてきたが、差異にとって、古い連続的共存性は桎梏・阻害的なのである。そして、この拘束を徹底的に破壊したとき、新しい共存性が生まれる。それは、不連続的共存性であり、それは、ポスト資本主義である。世界は新しいサイクルに入るだろう。
 では、古い連続的共存性の起源は何であったろうか。これは、私見では、封建的前近代的共同体志向である。地縁血縁的コネクションである。「連合」主義である。これは、受動的な、惰性的な、停滞的な、保守的な世界観である。私見では、これは、多神教デカダンスである。差異共存性の水平的展開のデカダンス・帰結である。そして、一神教の能動的な、攻撃的な、発展的な、革新的な世界観が勝利した。ここで、一神教多神教との争闘は終焉した。同時に、ポスト一神教が始動する。これが、新しい多神教である。ポスト新自由主義である。これは、不連続的共存主義である。思うに、現在、アメリカがこのような状況に達しているのではないだろうか。イラク問題、カトリーナ問題、これらは、一神教的方策の結果である。多極主義が本当なら、それは、多神教ということである。新多神教ということである。これは、あらゆる分野で生起する出来事である。新自由主義という災厄を経て、古い連続集合主義が終焉して、新たに個・差異・不連続性が発芽する。ようやく、本質的民主主義が始まるのである。これが、ポスト・プロテスタンティズム、ネオルネサンスである。







新自由主義社会民主主義の反動性:不連続的差異自由共存経済へ向けて

先に、両者、IM境界の弁証法の内にあると述べたが、もう一度整理したい。つまり、新自由主義社会民主主義社会主義に対する「反発」はどういう事象なのか。市場原理主義という理屈ではなくて、その力学を見たい。つまり、水平的連続性に対する反発ということになるが、その起点である。先に、imbの矛盾同一性にそれを求めた。 
 ここで、もう一度確認しよう。imbは、不連続的差異性と連続的差異性との矛盾同一領域である。差異共存性とは、前者にあるのであり、後者には、差異連結性ないし差異連続性が生起している。新自由主義は、社会民主主義社会主義のような水平的連続性を「憎んで」いる。それは、新自由主義が、市場原理主義という不連続性を志向することから来ていると考えられよう。しかし、この不連続性とは何だろうか。これは、市場に参入する個体(法人を含めて)の不連続性のことである。この点で、不連続的差異性と言ってもいいかもしれない。そう、だから、新自由主義において、不連続的差異の共存性がある意味で成立しているのだ。しかし、この共存は前提としてあるのであり、結果は、弱肉強食である。だから、結果は、非共存である。つまり、自由競争である。この不連続性であるが、先の論では、imbを基軸にして、イデア界における垂直的不連続性の反作用が原因であると述べたが、ここは、難問である。イデア界で、垂直的不連続性の反作用は、絶対的独立性を志向する。それは、イデア/メディア境界において、水平的連結・連続性を否定・排斥するだろう。反連続性である。問題は、差異共存性、差異共存志向性である。これが、そのとき、どうなるのかである。連結・連続性とは、もともと、不連続的差異の水平的共存性によって形成されたものである。だから、イデア/メディア境界imbにおいて、連結・連続性とは、水平的共存性と結びついていたのである。しかし、垂直的不連続性が作用(反作用)するとき、この水平的共存性が弱化し、また、連結・連続性も否定されるのである。この時、連結・連続性への否定・排斥とは、思うに、水平的共存性を忘失するのではないだろうか。つまり、イデア界の反作用が生起している事態である。それは、水平共存の極から垂直独立の極への転換である。つまり、共存から独立への志向である。揺り戻しである。だから、共存から生まれた連結・連続性は解体していくだろう。もっとも、共存性自体はなくならない。
 私は先にこの点で、反動という言葉を用いたがどうなのだろうか。つまり、一神教からの視点でそうなったのである。一神教新自由主義とが結びついていると判断して、反動を考えたのである。一神教とは、垂直性と水平性との統合、つまり、矛盾同一であるが、必然的に生じる多神教を排斥しようとするのであるからである。つまり、新自由主義を、矛盾同一において捉えようとしたのである。思うに、この考えの方が適切である。なぜなら、イデア界の垂直的不連続性は、純粋な力(虚力)であり、それは、新自由主義には当てはまらないからだ。新自由主義は利己・自我主義であるから、連続・同一性をそれなりにもっている。しかし、社会民主主義社会主義のような水平的連続性はもっていない。いわば、垂直的連続性はある。だから、新自由主義は、矛盾同一における反動と見るのが正しく、それは、共存性を否定してしまうのである。イデア界における差異の反作用は共存性を否定はしない。何故なら、不連続性と共存性は相補性だからである。イデア・メディア境界imbの矛盾同一性において、弁証法が形成されて、二律背反・二項対立的になるのである。即ち、新自由主義は、社会民主主義社会主義を否定するのである。そして、後者は前者を否定するのである。
 しかし、実際は、不連続的差異自由共存経済を志向すべきである。それは、新自由主義社会民主主義弁証法の超克である。自由共存市場のようなものが必要となるのではないだろうか。

p.s. 自由共存資本主義である。つまり、現在の自由資本ではなくて、自由共存資本にするのである。自由共存資本市場が成立するのである。だから、自由共存資本経営を行なうようになればいいのではないだろうか。自由共存資本産業である。農林水産業、福祉医療学校等はこのようにすべきではないだろうか。また、エネルギー産業もこのようにすべきではないか。脱原発として、自由共存資本エネルギー産業である。Liberal Coexistence Capitalism. Liberal Difference-Coexistence Capitalism.