近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的

近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的差異論

近代的二元論とは、当然、近代的合理主義、近代的自我主義であるが、近代的合理主義とは、フッサールの説く近世・近代的自然科学の客観主義である。これは、デカルト哲学の一面化に過ぎず、その特異性の哲学を喪失している。
 近代的合理主義・近代的客観主義とは、ある主観性に規定されている。ある主観性のフレーム化をもっている。これは、カントの超越論的形式主義であるが、これは、不連続的差異論から見ると、メディア界と現象界の境界のもつ連続・同一性の構造性を意味する。即ち、メディア界→現象界の反転・反動・能動構造力学を作動していて、現象界は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。(この力学構造の詳細に関しては、後で、検討する。)即ち、メディア・現象境界の連続・同一性構造という主観性構造・形式(一つの超越論的主観性)が、近代的合理主義・客観主義の主観性であり、近代的自我主義(利己主義)を形成しているのである。
 マルクスの説いた交換価値も、こことリンクしているのであり、これが、近代的資本主義や社会主義の基盤である。
 さて、ポストモダニズムポスト構造主義は、この近代主義を解体したと言えよう。不連続的差異論から言えば、メディア界の極性的同一性、相補性を説いたのである。(しかし、これは、量子論相対性理論に相当する哲学であろう。哲学の遅延。)簡単に言えば、近代的自我・合理主義/連続的同一性客観主義を論破したのである。近代的自我は、差異的多様性に変化した。しかし、この差異は、まだ、連続的差異である。つまり、ポスト構造主義等の脱近代主義は、連続主義を残しているのである。連続主義とは、集合主義、連合主義、連帯主義、全体主義である。これは、また、共同体主義ナショナリズム国家主義でもある。近代的自我主義を乗り越えたが、連続主義を残してしまっているのである。政治的には、全体主義ファシズム、(国民)国家主義ナショナリズム等である。
 だから、さらに、ポスト構造主義を超えて、不連続的差異主義へと進展する必要があるのである。これで、ポスト近代主義が完璧となるのである。 
 さて、最後に、ポスト近代主義において、心身はどうなるか見てみよう。近代的自我・合理・客観主義とは、連続・同一性構造主義であり、それは、精神と物質の二元論をもたらした。つまり、近代的機械論である。精神のない物質があり、その物質形式を精神が認識するということである。この主観性は、機械主義的合理主義である。いわゆる、感情や魂等は排除されている。感情や魂とは、不連続的差異論から見ると、イデア・メディア境界の事象である。これが、近代主義によって排除されるのである。イデア界の回転的変動・不連続的差異の垂直・水平的変動を排除するのである。この抑圧・隠蔽が反動・暴力であり、他者への差別・攻撃となるのである(日常の諸暴力に加えて、植民地主義帝国主義、世界大戦、覇権主義等を派生した)。
 デリダ哲学は、メディア界的極性的生成変化(構築と脱構築の反復・相補性)を説いたが、ドゥルーズガタリ哲学は、イデア・メディア境界に達したが、このいわばブラックホールに陥ってしまった。即ち、不連続的差異性と連続的差異性との混同が起こったのである。この点、絶対矛盾的自己合一を説く西田哲学の方が明敏である。そして、世界の大変動に対して、ポスト構造主義は衰退した。確かに、ドゥルーズガタリは、資本主義の分裂性を把捉していたのである。思うに、ドゥルーズガタリ哲学とは、現代資本主義の差異価値性を理論化したものと言えるのだろう。しかし、それは、メディア界的資本主義であり、イデア界的資本主義ではない。グローバリゼーションは、新自由主義は、ポスト連続主義である。即ち、イデア界的なのである。ある意味で、ニーチェ哲学の境域にあると言えよう。物自体も超えている。根源の差異、不連続的差異の世界である。これは、フッサール現象学間主観性の世界・生活世界である。市場原理主義とは、一切の先入観を排しているのである。超物自体である。「空」である。「空」である差異と「空」である差異との共立原理である。ここは、偶然の世界である。必然性はないのである。骰子一擲の世界である。このニーチェフッサール哲学あるいは不連続的差異論の世界に、現代最新の資本主義は達しているのである。ハイパーリンクの世界である。これは、イデア界であり、また、イデア・メディア境界の世界である。ここで、突然変異が生起するのである。差異の組み換えが生起するのである。結局、こうなると、国家、社会、文化も不連続的差異化せざるを得なくなる。国家は人体の脳のように、内外信号の整合化機関(器官)として、ミニマム化されるだろう。もっとも脳とは、不連続的差異の器官ではないか。そう、ここで、アントナン・アルトー器官なき身体を想起する。器官なき身体とは脳のことではないか。あるいは、「脳」。これは、イデア界の器官ではないか。不連続的差異の器官ではないか。そう、双方向的なイデア・メディア境界とも言えよう。ホワイトヘッド哲学のプロセスに相当するだろう。






自我の根源とは何か:「わたし」はどこから来て、どこへ行くのか

今は、思考実験でしかないが、作業仮説的に、自我の根源をイデア界の差異共存体としよう。これが、メディア界的遺伝子・形相化して、メディア界と現象界の境界で、有機体化して、個体として誕生するとしよう。即ち、自我個体とは、根源は、イデア界の差異共存体であり、それが、メディア界・遺伝子・形相化されて、現象界で有機体となるのである。図式化すると、

3.現象界:心身体・・・フッサールの自然的態度
________________________
2.メディア界:遺伝子・形相
___________超越論的主観性・生ける現在
1.イデア界:差異共存体・・・絶対的自我・原自我・「神」


このようになるだろう。つまり、人間の根源はイデア界自体である。そして、たとえば、睡眠中は、「わたし」は、イデア界に帰還しているのだろう。というか、原自我にもどっているのだ。不連続的差異の共存体に回帰しているのだ。そして、また、死んだ時は、絶対的に、イデア界に帰還するのだろう。これで、一応、理論化できたのであるが、問題は、個の問題である。自我、「わたし」は、不連続的差異共存体である原自我・イデア界に回帰するのであるが、そのとき、現象界での個はどうなるのか。
 角度を変えて、考えよう。つまり、イデア界の差異を個のように捉えていいのかどうかである。確かに、d1,d2,d3,・・・dnと考えてきたのだから、差異は「個」である。これを、「霊魂」のようなものとしていいのだろうか。(この問題は、解決したが。)
 ここで、また、直観で考えよう。つまり、睡眠中、「わたし」はどうなっているのかという問題を考えよう。夢を見ている時は、「わたし」はメディア界にいるだろう。というか、メディア界を知覚しているのである。ゆらぐ、時空間を超越した世界を知覚しているのである。そう、メディア界自体に存していると言っていいのではないか。 
 次に、夢を見ていない時は、どこにいるのか。先に、「幽体離脱」ではないかと述べた。直観で言えば、メディア界とともに「幽体離脱」状態ではないか。差異連結体であるメディア界が、肉体現象から離脱する? 否、知覚を考えなくてはいけない。知覚とは、根源は、差異境界、差異の強度だろう。つまり、「光」である。思うに、「幽体」とは、メディア界の強度である。エネルギー体である。これが、イデア界へ帰還するのではないか。つまり、メディア・エネルギーが、脱連結化して、差異共存体の「光」へと回帰するのではないか。つまり、即ち、差異共存体の「光」・超光に回帰して、その根源のエネルギーを補給されるのではないだろうか。(だんだん、ファンタジーになってきた。)そして、「バッテリー」が充電されて、再び、メディア界、現象界へと戻るのではないか。すると、知覚とは、エネルギー体である。差異エネルギー体である。そう、光の一種ではないか。結局は、イデア界の差異共存体の「光」、原光ではないか。すると、この原光は、記憶媒体となるのではないか。現象界の記憶媒体となるのではないか。つまり、原光としての知覚である。ということは、無数の差異とは別に、無数の生成変化する原光の知覚があるということになるだろう。この無数の原光知覚が、原自我ではないか。多数の原自我があるということになる。これが、霊魂と言われるものではないか。プラトンは霊魂の不死と言ったが、この原光知覚・原自我のことではないか。ウパニシャッド哲学で、梵我一如(ブラフマンアートマンの一体性)というが、ブラフマンとはイデア界であり、アートマンが、原自我であろう。そして、これは、無数あるということになる。
 ならば、差異は何かということになる。差異は、自然の質料を主に形成するのではないだろうか。差異=質料であり、原光=知覚である。そして、差異・原光=質料・知覚である。これが、知即存在ではないか。
 ここで、ひとまず、筆を置く。







プロテスタンティズム聖霊の関係:ポストモダン・不連続的差異自由主義イデア界原点革命

問題は、イエス教の意味である。神の下の平等の問題でもある。これは、確かに、キリスト教原理である。ヤハウェとイエスの合体である。しかし、ロゴスを言葉と訳したため、イデア界が喪失されて、現象界中心となった。これは、近代的二元論と相応するだろう。思惟(精神)と延長(物質)の二元論である。ここから、フッサールが批判する物理学的客観主義が生まれた。近代的合理主義である。
 結局、聖霊が意識的には、喪失されたと言えるが、潜在的には、聖霊は存していた。つまり、ルネサンスプロテスタンティズムに潜在していた。やはり、分裂症としての西欧近代主義である。宗教改革ルネサンスの二重構造をもつ西欧近代主義である。つまり、イデア界と現象界の分裂である。メディア界を喪失しているとも言える。
 近代的資本主義は、二元論的資本主義であり、聖霊を喪失している。しかし、民主主義が勃興する。それは、実は、イデア界が作用しているからである。しかし、これは、イデア界自体としては理解されずに、現象界的「理性」として理解される。啓蒙思想フランス革命。つまり、近代的合理主義の枠で、民主主義が創出された。これは、また、キリスト教の平等主義と見合うものである。それは、連続・同一性的平等主義である。「汝自身の如く隣人を愛せよ」 これは、差異の否定である。そして、近代的資本主義に対抗して、社会主義思想・運動が生まれる。これも、結局、近代主義的連続・同一性主義である。つまり、生産の政治的統制を意味するのである。計画経済である。ここにも、差異がない。そして、近代は、近代的資本主義と近代的社会主義に分離して、冷戦に帰結する。しかし、既述のように、資本主義は、ルネサンス聖霊、差異を内在しているのである。つまり、資本主義自体、ポスト近代主義なのである。つまり、自由主義である。これが、社会主義と決定的に異なる点である。まとめると、近代的資本主義は、キリスト教化された差異自由主義である。イデア界/現象界の分裂症的資本主義である。差異/同一性分裂症的資本主義である。問題は、イデア界の力が、近代主義の枠に閉塞されることである。差異自由主義が、連続・同一性的合理主義のフレームに閉じ込められることである。ここで、キリスト教の用語である三位一体の用語を用いると、近代主義とは、父と子の合体である。一神教と神的平等主義。そして、一神教性は、戦闘・戦争・破壊主義となった。この父と子の合体に対して、無意識の聖霊・差異が作動するのである。これは、差異自由主義であるが、これが、父・子の近代主義をまとうのでる。つまり、差異自由主義が父・子・近代主義化されるのである。これが、植民地主義帝国主義、世界大戦を生んだと言えよう。【また、社会主義国家の誕生に対応して、国家資本主義・社会主義性を、近代資本主義は取り入れた(ケインズ主義)。】
 この抑圧構造を近代的資本主義はもっていた。つまり、

1.差異自由主義聖霊)/⇔/2.戦闘的経済自由主義(父)/3.連続的民主主義(子)

の三重構造である。(/⇔/は、抑圧構造の意味である。)
そして、3において、社会主義化したのである。これが、冷戦的資本主義である。しかし、冷戦の終了によって、社会主義が否定され、グローバリゼーションが発動し、新自由主義革命が起こる。これは、社会主義化した3の否定である。小さな政府はそのような意味をもつ。しかし、市場原理主義とは、これは、1の原理である。これは、2の側面をもっているので、極めて破壊的になってはいる。しかしながら、3を否定したので、キリスト教原理は崩壊する。それは、父と子の結合である近代主義の崩壊である。ポスト構造主義ポストモダニズムは、理論的に近代主義の崩壊を準備したと言えよう。フランス革命を準備した啓蒙思想の位置に相当するとも言えるだろう。すると、近代主義の崩壊によって、実は、根源的な力が発動するようになる。つまり、1の差異自由主義が賦活されるのである。イデア界の力が躍動するようになると言えよう。そう、ネオコンとは、父の側面だろう。しかし、近代主義が崩壊したので、父も解体するのである。子が崩壊しても、父が残ることはありえない。なぜならば、父と子は近代主義において一体だからである。父とは近代的合理主義である。近代的自我主義である。結局、近代主義の終焉である。ポスト近代主義の噴火である。この震源は、差異自由主義聖霊イデア界自体である。そして、新自由主義は、その経済的発現である。ただし、国家の枠があるから、権力的で破壊的である。(国家とは何かの問題があるが、後で検討。)
 結局、現代は、ポスト近代主義「革命」(相転移)の新時代であり、近代主義がすべて否定・破壊されるエポックである。思うに、政治・経済の方が、ポスト近代主義を牽引しているのであるが、いまだ、近代主義に染まっている知識人・文化人・国民は、新自由主義をただ否定的に捉えることしかできない。今や、新自由主義は、社会・文化・生活においても発動されなくてはならないのである。それは、不連続的差異共存・共立・共生社会体の構築であろう。不連続的差異共存的民主主義の新構築であろう。
 不連続的差異革命である。イデア界という原点革命である。







イデア界の共存力と瞑想・禅・気:イデア・メディア・現象三層共鳴:差異共存共創主義

イデア界とメディア界の境界において、イデア界の虚力と併存して、メディア界の連結力・強度・エネルゲイアが発生している。つまり、後者は、形相・原型・構造・「イデア」・型・雛型(イデア界の差異であるイデアではない)であり、現象界へと転化される。この後者に作用しているのが、いわば、メディア力・強度・エネルゲイアである。わかりやすく言えば、

1.イデア界の力・虚力・デュナミス
・・・イデア・メディア境界・IM境界・・・
2.メディア界の力・強度・エネルゲイア

1と2が、イデア・メディア境界・IM境界に併存しているのである。1⇒2は質的変換である。これが、自然の変化の中でもっとも不思議なものだろう。1/4回転・質的変換である。このとき、連結化が生じて、形相が発生する(連結化の仕方については後で考察しよう)。即ち、形相・エネルゲイア発生である。「無」から「有」の誕生とも言える。しかし、「無」は、不連続的差異の共存状態である。イデア界・虚界における状態である。これが、「有」ないし原有・前有となる。しかし、「有」は、不連続的差異の連結であるから、潜在的には、差異共存性をもっていると言えよう。形相・エネルゲイアは、潜在・内在的に「無」・虚力・デュナミスをもっているのである。とまれ、これが、現象化するのである。それは、連続・同一性化によるのである。微分積分化である。これが、ベルクソンハイデガードゥルーズの連続体論の意味するものであろう。連続的差異の有限化である(この点についても後で検討)。
 結局のところ、イデア界の差異は、メディア界化して、そして、現象界化している。だから、超越論的に現象界は差異共存性(思うに、これがプラトンの理性だろう。円だろう。)を内在しているのであるから、なんらかの方法で、差異共存性にコンタクトできるはずであるし、そうした場合、差異共存性の力が、メディア界、現象界に伝導するはずである。これが、思うに、瞑想等によって目指される心身状態だと思う。つまり、心身を差異共存性の状態に変化させるのである。そして、イデア界と共鳴するのである。これが、仏教・禅でいう「無」の境地であろう。空というのも、これと同様であろう。ヨガも同様だろう。また、聖地と呼ばれるところは、このような差異共存性にコンタクトしやすい場所に違いない。確かに、経験的に聖地と呼ばれるところは気持ちがよくなるものだ。(参照:ツボ、経絡、龍脈、レイライン等々)瞑想に関しては、科学的に検証されている。しかし、物質主義的科学では限界がある。
 とまれ、差異共存状態を励起させれば、イデア界が賦活されて、共鳴状態が生じるということになるだろう。おそらく、仕事でも、このような状態になると物事がはかどるはずである。日本一になった千葉ロッテマリーンズは、ボビー・バレンタイン監督の指揮下、このような差異共存状態になったのではないだろうか。イデア界的「超電導」状態である。これからの厳しいビジネス界において、差異共存性の「マジック」を活用すべきである。これは正に、差異共存共創主義である。







一神教多神教の構造について:現象界的連続・同一性とイデア・メディア境界的矛盾同一性

一神教は、イデア界⇒メディア界⇒現象界という連結・連続・同一性の過程であり、境界において、光から闇へ転化すると述べた。この転化の力学を反動と述べたが、それは、不十分で、能動且つ反動、能動・反動的転化と見るべきだと思う。ここには、自然の力学があるのである。これは、一種極性であろう。即ち、能動・反動的転化とは、+作用、又は、+連結作用、+順列作用と呼べるだろう。そして、必然的に−作用が生じる。それが、−連結、−順列作用である。
 しかし、問題は、現象界における連続・同一性の固定、即ち、言語同一性によって、この+と−の極性作用が阻害、疎外、抑止されると考えられる。現象界は、言語意識によって固定される。とりわけ、近代的二元論によって、思惟(精神)と延長(物質)によって固定される。だから、ここで、分裂性が発現すると言える。言語的固定と極性的回転・変動の分裂が生起する。そして、近代主義は、後者を抑止したのである。ここに、近代主義の精神的病理があるのである。そして、後者を保持するものを、狂人と位置づけて、監獄に拘束したのである(フーコーの『狂気の歴史』)。ポストモダンは、近代主義が排除したものを積極的に肯定したと言えよう。結局、メディア界を提起したと言えよう。これは、極性回転・変動・矛盾同一性の世界・領域である。
 さて、極性回転構造について考察すると、これは、正に、矛盾同一的に生成変化する領域である。そして、ここは、たいへん理論的に危険な領域である。ドゥルーズは、ここで混乱したのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一という概念は、この領域を指しているが、絶対矛盾という観念において、ドゥルーズの連続性から脱しているように思える。ドゥルーズは、境界性のもつ矛盾同一性に対して、不明晰であると考えられる。
 では、とまれ、極性回転構造に対して、近代主義は抑圧的であり、ポストモダンは、それを剔抉した。しかし、これをどれほど、知識人は理解しただろうか。とまれ、+回転と−回転があると言えよう。そして、+回転で固定・固着しているのが近代主義である。そして、−回転を指摘したのが、ポスト構造主義である(デリダ脱構築とは正に、−回転だろう。構築した+を−回転で解体するのだ)。しかし、これは、実は、文学や美術等の芸術分野で為されていることである。「モダニズム」と呼ばれるものがそうである。だから、本当は、「モダニズム」とは、トランスモダニズム、メタモダニズム等と呼ばれるべきである。
 今日、現代世界は、ポスト構造主義を超えている。新自由主義は、不連続的差異の肯定である。これは、イデア界の領域である。だから、ポスト・ポスト構造主義、即ち、不連続的差異論に達しなければ、現代を理解できないと言える。このイデア界の構造であるが、これは、+と−の極性の世界ではなくて、虚数複素数の世界である。虚界である。純粋超越論的世界である。ここでは、不連続的差異の共存の「力」が存するのである。デュナミスの力である。そして、実は、イデア・メディア境界において、この力が作用するのである。共立力である。(思うに、市場原理とは、一種共立力をもっていると言えよう。)今や、この虚界の共立力を抽き出すべきときなのである。これは、思うに、無限エネルギーへのアクセスと通じると思われる。今や、現代は、虚界の世界、純粋超越論世界、イデア界へと参入することになったのである。物理学や数学ではおなじみの世界であるが。

p.s. +回転や−回転とは、素粒子の生成消滅に関係しそうである。+回転で生成し、−回転で消滅するということである。私の想像では、これは、イデア界へ帰還したことだと思う。量子論では、「場」というが、しかし、「場」は、イデア界と見做すべきだろう。イデア界の+回転があり、それが、メディア界的連結エネルギーを発動させ、そして、イデア界の−回転が、メディア界的脱連結エネルギーを発動させるのではないだろうか。+回転とは1/4回転だろうし、 −回転とは2/4回転ではないだろか。ここは、ロジャー・ペンローズのスピノールのようなものに似ているように思える。メディア界の生成消滅の根源は、イデア界の回転ということになる。このイデア界の「力」が、メディア界の極性力となる。イデア界の「力」がメディア界の「力」に転換するイデア・メディア境界の事象は実に興味深い。イデア界の力が、メディア界の極性力に変換するのだ。ガウス平面の力が、量子論の本源的力であろう。もっとも、量子論は、メディア界的相補性を扱っているが、それは、差異/強度の相補性であろう。差異が粒子性となり、強度が波動性となるのだろう。しかし、本来不可分一体である。差異と強度の相補性である。この強度(エネルゲイア)が極性がもつのであるが、前強度、原強度がイデア力である。これが、デュナミスである。デュナミスが差異共存力である。差異絶対力である。

p.p.s. 後、問題点は、イデア力自体が開かれた時は、どうなるのかである。思うに、イデア力は危険である。それは、通常の現象界の同一性の認識と齟齬を来すだろう。だから、一種狂気となるのである。これを、通常の認識に組み込む方法が必要である。やはり、イデア界を知的に肯定する必要がある。それによって、イデア界の力は、現象界の認識と調和するようになるだろう。(参照:禅) D.H.ロレンスがカオスの力と呼んだものが、このイデア界の力であろう。現代、イデア界の力と調和する必要がある。これによって、ポスト近代主義が決定的になり、ポスト西洋文明の、新地球文明時代へと転換するだろう。イデア界の差異共存の力。差異共存の知。そう、イデア界の身体的認識により、イデア界の力があたかも超電導のように流入するのではないだろうか。つまり、差異共存性と調和する心身となると、差異共存力が流入するのではないか。なぜならば、共鳴するからだ。イデア界の差異共存性と心身とが共鳴して、力が流入するのではないだろうか。これは、順列形成とは別である。イデア界とメディア界と現象界の三者共鳴である。そして、思うに、東洋の「気」とは、このイデア界の力のことではないだろうか。これは、生体を活性化するだろう。また、さらに言えば、睡眠とは、やはり、イデア界の差異共存界に帰還することではないだろうか。知覚が、イデア界に帰還して、イデア界に参入するのではないだろうか。また、秘儀・密儀参入も同様ではないか。古代ギリシアにおいてエレウシスの秘儀が有名で、プラトンソフォクレス等が参加したというが、秘儀とはイデア界に参入することならば、それは説得力があるだろう。また、グノーシス主義の叡知界も同様だろう。







一神教キリスト教プロテスタンティズムの構造について:再論

一神教の図式

Ⅰ)
1.イデア界/IM[光/闇]/2.メディア界/MP[光/闇]/3.現象界

二つの境界に光/闇の閾(いき)を作業仮設する。そして、一神教の場合、両境界の光に対してブラインドとなっている。つまり、闇の側面が生じている。これは、イデア界の排出・隠蔽、メディア界の排出・隠蔽を意味する。だから、次のように図式化してもいい。

Ⅱ)
1.イデア界/IM[光⇒闇/2.メディア界/MP[光⇒闇]/3.現象界

とまれ、一神教は連結・連続・同一性への能動的志向であり、不連続的差異、連続的差異を排出・隠蔽して、それらに対して、ブラインドである。
 これがヤハウェ教である。では、イエス教はどうなのか。思うに、イエス教は、新たに、イデア界が賦活された場合ではないだろうか。それが、イエスの連続・同一性の平等性の教えとなったのではないか。つまり、イエス教は、プロテスタンティズムに似ているように思う。つまり、イエス教の場合、イデア界の触発が新たな触発があるのであり、その不連続的差異、聖霊性が出現していると思う。つまり、イエス教は、精神分裂症があるのである。これは、新約聖書の解読と一致する。矛盾同一性を洞察するのである。だから、イエスは、聖霊の最重要性を説くのだろう。つまり、イエス教は、聖霊教と一神教とのハイブリッドであるということになる。その教えは、聖霊教(不連続性)と一神教(連続性)との折衷となる。
 これに基づくならば、キリスト教本来とプロテスタンティズムはとても酷似しているのだ。カトリックの方が、異教性が強い。とまれ、そういうような作業仮説に立って、資本主義を考察すると、それは、聖霊教と一神教の分裂性をもっているもので、その自由主義とは、この分裂性をもっているだろう。つまり、不連続的自由主義と連続的自由主義である。前者が、経済的には市場主義であり、後者は、経済的には公共事業、社会主義、官営主義と考えられよう。政治的には、両者、代議制民主主義であるが、前者は、自由主義的民主主義であり、後者は、社会主義的民主主義である。
 とまれ、問題は、不連続性と連続性の関係である。資本主義は分裂的に両義的である。これが、いわば、近代主義を構成したのだろう。そして、冷戦的二項対立を生む。しかし、連続主義が敗北する。すると、資本主義は変質して、不連続性を強化したと言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、キリスト教性を否定して、聖霊教性を肯定し出したと言えよう。ただし、ヤハウェ性があるから、超越神性、非妥協的絶対的暴力性があるのである、極度に破壊的である。つまり、聖霊ヤハウェがいわば結合して、連続・同一性的社会主義性を破壊するのである。これが新自由主義ではないか。そう、これはイエス教の破壊的側面と言ってもいいかもしれない。イエス教の連続・同一性をイエス教の不連続性(聖霊性+ヤハウェ性)が破壊するのである。
 問題は新自由主義の市場原理である。これは何か。市場原理とは、基本的には聖霊性・不連続性である。経済的聖霊性・不連続性と言えよう。しかし、新自由主義の場合、ヤハウェ性とそれが結びついているので、連続・同一性、社会主義、平等主義を破壊するのである。いわば、自分自身を破壊するのでる。ヤハウェ/イエスが構築した連続・同一性の社会を破壊するのである。なぜならば、聖霊・不連続性による駆動があるからだ。つまり、ヤハウェ/イエスは自分自身に反動化するのである。これは、自己破壊以外の何ものでもないだろう。つまり、聖霊・不連続性・イデア界の威力によって、ヤハウェ/イエス教は、自己破壊、自害するのである。つまり、新自由主義は正に転換点である。これは、キリスト教の超克である。近代主義の超克である。西洋文明の超克である。ただ、この破壊主義は至上に凶暴であるので、純粋イデア界に帰還して、新秩序化する必要がある。即ち、聖霊・不連続的差異に即した(則した)、社会・政治形成が必要であるということである。経済的には、市場原理が勝利したのである。これは、聖霊・不連続性の勝利である。経済以外の政治・社会・文化において、聖霊・不連続的差異の自由主義を新構築する必要があるのである。

p.s. ヤハウェ教の構造とは、上図式のⅡのイデア界⇒メディア界⇒現象界の移行全体を意味すると考えられる。ただし、光が闇へと転じている事象は、光の差異が闇の同一性へと転化していることと考えられる。この転化の力学は、否定・反動の力学だと思われる。簡単に言えば、差異から自我同一性を形成する力学である。私がこれまで、一神教における、反動性、捩り、拗くれと言ったものは、この転化過程のことと考えられるのであり、これは、一つの自然過程と見ることができる。権力・暴力もこの自然力学である。そして、ジェンダー論的には、これは、父権制の過程である。そして、近世になり、ルネサンスにおいて、イデア界の再賦活が起こり、再構造化が起こったのである。それは、一神教構造においては、プロテスタンティズムとなったのである。つまり、不連続的差異・聖霊自由主義が発動したのである。これは、ポスト近代主義、ポスト西欧の動きである。結局、一神教構造と自由主義の矛盾・衝突(二律背反)が生じて、それは、冷戦終焉で、基本的に終了したと言えよう。新自由主義とは、経済領域における自由主義の貫徹である。現代は、ポスト近代主義、ポスト西欧主義、ポスト・キリスト教の超新代である。イデア界の不連続的差異的自由主義のスーパー・エポックである。ポスト・ヒューマン、「超人」、生まれ変わりのアイオーンである。西洋文明のサイクルが終焉して、らせん回帰的に新たな文明のサイクルが始まるアイオーンであろう。






「父」と資本主義:戦闘的自由主義と不連続的差異共存社会

これまで、「父」・一神教と資本主義を同一視してきたが、先に考察によって、そうでないことが判明した。即ち、プロテスタンティズムは「精神分裂症」であるのであり、ルネサンスキリスト教原理主義である。そして、資本主義はこの両義性・分裂性をもって進展してきた。
 ここで、父と資本主義の関係を明確にしたい。先の考察で、プロテスタンティズムは、キリスト教原理主義ルネサンスということになった。そして、父とは、同一性化したイデア・メディア境界である。これと資本主義はどう関係するのか。自由主義とは、基本的には、ルネサンス的である。そして、父とは、自由主義にとって、アンチ封建的国家のイデオロギーの中心だろう。自由主義は、基本的にイデア界的である。しかし、イデオロギーとして、キリスト教原理主義をまとったと言えよう。つまり、ルネサンス的では、平和主義的である。推進力をもつためにキリスト教原理主義を採用したと言えるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化である。そう、ここはとても複雑である。不連続的差異の垂直化としてのプロテスタンティズム・父である。ここで、二重構造を確認しないといけない。イデア界の不連続的差異の垂直化と、イデア・メディア境界における同一性化(反動化)である。これがプロテスタンティズムの父である。つまり、自由主義的解放性と二律背反・弁証法的破壊主義が併存しているのである。
 ここで、新自由主義を考えると、これは、プロテスタンティズムの父のイデア界的解放性をもつと同時に、父の破壊性をもっているだろう。すると、やはり、新自由主義とは、プロテスタンティズムの現代的展開であると言えるだろう。これは、一切の連続・同一性主義を破壊するだろう。できれば、国家も破壊するだろう。アナキズムリバタリアニズム。結局、旧来の官営的社会民主主義は破壊される。とまれ、戦闘・破壊的自由主義である。しかし、イデア界の差異は、共存性を志向するのであるから、これに対する相補力が喚起される。これが、不連続的共存主義であろう。これをどうするかである。ネグリの考えているマルチチュードとは、マルクス主義に囚われているが、これを潜在的に志向しているのではないだろうか。結局、自由主義社会民主主義自由主義的差異共存主義をどう構築するのかということだろう。これには、個人が不連続的差異になって共存する社会を構築するしかないだろう。おそらく、娯楽する余裕がなくなるだろう。不連続的差異の共存する社会構築のために、資金を共立共生化するしかなくなるのではないだろうか。個人がイデア界に達して、不連続的差異共存コミュニティ・エコミュニティを構築するしかないのではないだろうか。イデア界的差異共存社会である。これを共同社会と呼んでいいのであろうか。共生社会、共存社会とは言えるだろう。しかし、共同社会と言えるのだろうか? 
 とまれ、自由主義的差異共存主義の政治・社会が対抗として打ち出されなくてはならない。
 とまれ、父は、子である社会主義、平等民主主義、即ち、近代的民主主義を破壊するのである。これは、先に述べたように、結局、キリスト教の終焉であり、父自身の崩壊であるのだろうか。否、ユダヤ教の支配だろう。キリスト教は崩壊するが、ユダヤ教は残るだろう。父は残るのだ。結局、ユダヤ教ルネサンスという「父」である新自由主義である。これに対しては、やはり、イデア界的自由主義的共存主義を打ち出すしかないだろう。イデア界への絶対的回帰しか生存の方法はないだろう。不連続的差異共存民主主義だろう。これを政治・社会化する必要があるのだろう。自由差異共存主義である。これは、連続・同一性的民主主義は否定するだろう。思うに、多神教イスラム教的なもののようになるだろう。不連続的差異的イスラム教。不連続的差異共存コミュニティ(共同体?)が必要だろう。







プロテスタンティズムの構造について:基盤としてのルネサンス聖霊イデア

先の考察を明快に整理しよう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10005552330.html
宗教改革ルネサンスへの反動と考えていたが、それは単純過ぎるだろう。ルネサンスは、イデア界⇔メディア界⇔現象界の図式でいい。宗教改革は、聖書、超越神信仰から発するメディア界の喪失である。この力学の原因は何か。それは、中世的枠組みの支配への反抗がある。絶対主義王権への反抗がある。封建制への反抗がある。プロテストは、異議申し立てである。ルネサンス個人主義自由主義との違いは、共存性の有無ではないか。だから、宗教改革は、非協調主義である。この力学構造は何か。確かに、垂直主義である。非妥協的垂直主義である。これは、ヤハウェ主義である。この根源は何か。これは、先に書いた図式でいいのではないか。即ち、

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・←・・←・・・←・・

⇒が近代的自我主義・エゴイズムであり、←が父への志向性である。この父への志向性であるが、父とイデア界は実は一致しない。父自体がイデア界への示唆であろう。つまり、父とは、イデア界の一種影であろう。即ち、イデア・メディア境界が父ではないだろうか。だから、図式を修正しないといけない。

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・/父/←・・・←・・

だいたい、このようになるだろう。//は、イデア・メディア境界である。つまり、父とは、イデア・メディア境界の「力」(おそらく、デュナミス/エネルゲイア)である連続的差異主義である。父は統一的な力となるだろう。なぜ、そうなるのかと言えば、それは、現象界の連続・同一性主義を帯びているからだと思う。現象界的連続・同一性を帯びたイデア・メディア境界が父=ヤハウェだと思う。だから、これは、多神教の構造とよく似ているのである。多神教の場合は、 ⇔となるのであり、神々は、父=ヤハウェと同様に、イデア・メディア境界にあるだろう。だから、ルネサンスが、現象界主義になったのがプロテスタンティズムと言えよう。
 では、この修正をポスト近代主義に当てはめると、新自由主義の勝利とは、一神教・父の勝利であるが、子という近代的水平主義の敗退である。そう、父の勝利を正当に認めなくてはならない。確かに、父の勝利である。
 では、父とは何かである。存在場所は、イデア・メディア境界である。そして、ここが、連続・同一性によっていわば、硬化している。つまり、差異共存性が、同一性化している。差異がいわば一枚岩のようになっている。これが父だろう。そして、それは、メディア界をも支配する。この連続・同一性化した父は、当然、連続・同一性そのものではない。そう、差異共存性、志向性(フッサール)を否定した唯一者である(参照:シュティルナー)。これが、父である。つまり、イデア界の志向性を否定した唯一者である。これは、イデア界の反動と言ってもいいだろう。ここには、冷酷無惨さ・超悪魔性があるのである。(旧約聖書ヤハウェの野蛮酷烈無惨さを見よ。また、西洋文明の同様さと比較せよ。)
 すると、新自由主義が父とするならば、そして、子を滅ぼしたとするなら、それは、聖霊、不連続的差異、イデア界への扉を開いたことになるだろう。問題は、西欧近代主義聖霊の問題である。ルネサンスは、聖霊的である。そして、ルターの聖書の独訳を見ても、それは音楽的であり、いわば、聖霊的である。つまり、プロテスタンティズムにも本当は、ルネサンス性が存しているのである(参照:バッハ音楽)。つまり、イデア界の志向があるのである。ここは非常に複雑である。やはり、持論である反動と見るのが正しいのではないだろうか。否、単なる反動ではない。二重性である。異教とキリスト教の二重性と言ってもいい。この構造はどうなっているのかである。
 こう考えたらどうだろうか。ルネサンス的志向をもちつつ、反体制的な自由主義に立った時、聖書がイデオロギーとなったということではないか。つまり、プロテスタンティズムとは、ルネサンス且つ聖書である。ルネサンスキリスト教原理主義である。だから、折衷ではある。ハイブリッドではある。だから、プロテスタンティズムは、イデア界・聖霊性をもつと同時に、それを遮蔽する抑圧性をもつのだ。分裂症である。精神分裂症としてのプロテスタンティズム・資本主義である。ここで、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を想起する。副題が、「資本主義と精神分裂症」である。確かに、プロテスタンティズム/資本主義は分裂症である。
 とまれ、プロテスタンティズムが以上のように分裂症的なものであるなら、新自由主義とは、父を超えているのではないか。父は抑圧的であり、不連続的差異を認めない。しかし、市場原理は、不連続的差異を肯定するのである。すると、経済的自由主義とは何かの問題にもなるだろう。それは、本来やはり、聖霊、差異、ルネサンス的なのである。しかし、父である国家や子である平等主義・社会主義がそれに対して、規制的である。そうすると、新自由主義の勝利とは、一神教の勝利ではなくて、ルネサンスの勝利である。聖霊の勝利である。父と子の近代主義を破壊したのである。結局、現代とは、ルネサンスの再来であるが、繰り返すが、グローバル・コスモス・ルネサンスである。聖書によって、抑圧されたルネサンスがここで、復活したのである。それは、イデア界の復活である。聖霊の復活である。結局、キリスト教・西洋文明・近代主義が崩壊・解体したのであり、イデア界的自由主義の全面的開花である。







近代主義の閉塞と聖霊差異性:根源的自由主義とポスト近代的資本主義

ルネサンスの差異起動に対して、宗教改革はどのように排出・隠蔽して、近代的資本主義を形成したのか。それは、反動である。この反動の構造はどうなっているのか。思うに、ここが決定的契機である。不連続的差異論から言えば、イデア界へのコンタクトが途切れたのである。三島由紀夫的に言えば、「断絃の時」である。それまで、古代宇宙論、コスモス論が持続していた。アリストテレスネオプラトニズム的宇宙・世界観があった。これは、ある意味で連続主義である。これが崩壊したのである。コスモスの崩壊である。物質主義的近代主義が始まっている。思いつきでは、これと、宗教改革とはつながっている。唯物論近代主義プロテスタンティズムはパラレルだと思う。また、これは、聖書のロゴスを言葉と訳したプロテスタンティズムとパラレルだと思う。端的に言えば、イデア聖霊が隠蔽・遮蔽されたのである。つまり、当時において、イデア界の意識が希薄になっていたのである。しかし、ルネサンスという強力なイデア界志向もあったのである。ネオプラトニズムとは、そのように見ることができる。フィレンツェプラトンルネサンス(フィチーニのプラトン・アカデミー)。つまり、イデア界の駆動があり、イデア・メディア境界が賦活されていたのである。宗教改革は、カトリックという、いわば異教的キリスト教に対する、キリスト教原理主義の勃興である。この力学は何か。ここがポイントである。これは、聖書から触発された超越神信仰である。超越神とは、現象界を超えた神ということである。ここでは、内在性が否定されている。不連続的差異論からの私見では、内在性とは、ここでは、イデア・メディア境界である。これが、排出・隠蔽されているのである。これは、メディア・現象境界が強固になって、それ以前のイデア・メディア境界が衰退しているということではないだろうか。排出・隠蔽があるのだろうか。ここは実に微妙な論点である。当時、ルネサンスによって、イデア・メディア境界の賦活があった。また、一方、メディア・現象境界の強固もあった。つまり、近世とはヤヌス(両面)的である。つまり、メディア界的である。メディア界の両極性を帯びていたと言える。即ち、一方では、イデア界への志向があり、他方、現象界への志向があった。これは、絵画で言えば、ボッチチェルリに体現しているだろう。つまり、

イデア界⇔メディア界⇔現象界

という構造であったと言えよう。これが、近世の構造である。そして、イデア界⇔メディア界の賦活がルネサンスであり、メディア界⇔現象界の賦活が宗教改革であったろう。後者は、前者にどのように作用するのだろうか。後者は、連続・同一性の構造である。だから、これは、差異を排出・隠蔽するのである。差異をシャットアウトするのである。だから、正確に言えば、宗教改革とは、メディア界を否定した現象界主義である。つまり、メディア界⇔現象界は誤りであり、メディア界⇒現象界である。メディア界⇔現象界は、ルネサンスである。だから、訂正すると、

ルネサンスイデア界⇔メディア界⇔現象界

宗教改革イデア界⇒メディア界⇒現象界        
      ↑←・・・・・・・・←↓
 
である。
つまり、宗教改革は現象界主義から不連続となったイデア界へと帰還しようという発想である。つまり、連続・同一性主義ではあるが、そこには、不連続性が残っているのである。そう、反動というよりは、残響として、イデア界があり、それが、父となっていると言えよう。そして、これが、西欧資本主義の精神構造である。アメリカ独立宣言のGod created us equal(神がわれわれを平等に創った)というのは、このことである。連続・同一性の平等主義があり、同時に、父がある。
 ということで、宗教改革は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。一方では、明確な現象界があり、他方では、イデア界の残響、名残、残照等があるのである(だから、アレゴリーではなくて、象徴主義的になるのである。)近代主義の閉塞性とは、メディア界の閉塞であったと言えようし、ルネサンスの閉塞であったのである。しかし、潜在、無意識の内に、メディア界やルネサンスは作動している。とりわけ、天才や庶民において。
 とまれ、近代主義とは、現象界中心主義であり、それが、近代的二元論を創ったと言えよう。即ち、思惟と延長、精神と身体の二元論である。思惟や精神とはこの場合、言語知性である。だからこそ、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されねばならなかったのである。近代主義は、現象界主義であるから、精神は言語知性ないし言語意識となるのであり、ロゴスという理性は言葉・言語となったと言えよう。そして、このキリスト教近代主義は、連続・同一性の平等主義を生み、これが、近代的民主主義となったし、また、資本主義への反動として、社会主義を生んだ。それは、キリスト教近代主義からの派生である。そして、プロテスタンティズム的構造をもった近代的資本主義が発達する。これは、現象界主義(物質主義)であるが、本質的には、イデア界から駆動しているのである。つまり、自由主義の問題である。自由主義とは、思うに、プロテスタンティズムルネサンスという二重構造をもっているが、経済的自由主義とは、プロテスタンティズム的である。
 さて、ここで問題なのが、近代的民主主義の発生である。それは、当然、経済的自由主義と関係するし、また、キリスト教的道徳と関係する。神の下の平等。隣人愛。自由は、悪からの解放等であろう。しかし、キリスト教的民主主義とは、連続・同一性の「道徳」であり、それは、差異を抑圧している。メディア界とイデア界を抑圧して、閉塞している。しかし、神はイデア界的ではないかという反論が生じるが、しかし、神は、示唆されても、イデア界ではなくて、連続・同一性の神である。キリストと一体化された神である。キリストとは、連続・同一性の神である。言葉の神である。ロゴスの神ではない。つまり、キリストは、現象界の神であるから、父も現象界的になるのである。即ち、連続・同一性=言葉の神となるのである。だから、イデア界への示唆も現象界に飲み込まれてしまうのである。これが、神の死である。つまり、近代主義とは現象界主義である。現象界中心主義である。そして、これが、現代日本の姿である。ということで、近代主義は、資本主義と連続・同一性の民主主義を生み出すことになる。そして、後者は社会主義を生むのである。つまり、資本主義と社会主義の二項対立である。これは、近代主義の分裂である。 
 問題は、資本主義である。自由主義の問題である。これは、近代主義ではあるが、不連続性をもっている。つまり、プロテスタンティズムの不連続性である。ここには、特異性が生じるのである。つまり、不連続的差異の垂直性がある。ルネサンスは、いわば、優等生で、垂直/水平性の均衡があった。即ち、イデア界の差異の純粋発動があったのである。だから、宗教改革はいわば、不良である。捻くれ、拗くれ、である。拗ね者である。そう、パスカルの宇宙的孤独である。とまれ、特異性があることを認めなくてはならない。そして、ここで、自由主義の資本主義と平等主義の民主主義との二律背反が生じているのである。これが、冷戦に帰結する。資本主義と社会主義弁証法である。そう、やはり、父(特異性)と子(同一性)の対立が近代主義にはあるのである。
 結局、現代、後者が敗退したのである。連続・同一性が敗退したのである。これは、西欧近代主義の崩壊を意味する。そう、冷戦崩壊以前のポスト構造主義を考えると、それはメディア界の復権であり、それは、それで、近代主義の解体を意味した。プロテスタンティズムの特異性とは絶対的エゴイズムを意味するだろう。唯一者である(シュティルナー)。ここでは、共存性はない。ただ、唯一者と唯一者の連合(同盟)があるだけである。問題は、近代主義の水平的連続・同一性(キリスト教社会主義)が崩壊して、不連続的・絶対的エゴイズムが勝利したのであるが、しかし、この近代主義の崩壊とは、現象界主義の崩壊を意味する。ポスト構造主義はメディア界を復活させた。それは、ある意味で、ルネサンス的である。そして、近代的民主主義(社会主義的資本主義)が崩壊して、いわば、差異の水平性・共存性が発動するようになったと言えよう。結局、近代主義の現象界中心主義が解体したのであり、メディア界が復権し、また、イデア界自体が賦活されたと言えよう。問題は、ポスト構造主義において、イデア界に到達できずに、イデア/メディア境界への進展で留まったことである。新自由主義は、ある意味でイデア界に達しているのである。経済的イデア界主義に達しているのである。それに対して、社会・政治・人文学的には、遅れているのである。
 もう少し、整理しよう。近代的資本主義は、マルクスが説いたように交換価値という連続・同一性に基づいていた。しかし、現代資本主義は、差異価値に基づいているのである。情報資本主義である。メディア界的資本主義である。また、これは、当然、イデア界的でもある。創造とは、イデア界から生起するのであるから。だから、現代資本主義はポスト近代的資本主義である。これが、新自由主義の意味であろう。旧資本主義、官営資本主義を否定するのである。そう、ポスト構造主義とは確かに、現代資本主義に対応しているだろう。とまれ、ポスト近代的資本主義に対して、意識、理論が、遅れているのである。未だに、近代的民主主義であるのである。つまり、連続・同一性・平等的民主主義なのである。これは、新自由主義に負けているのである。先の衆院選挙は、いわば、「理性の狡知」である。下層民が上層階層を支持したのである。上層階層は、新自由主義である。
 結局、経済領域においては、ポスト近代主義が勝利したのである。即ち、差異が勝利したのである。これは、ルネサンス的である。一面的であるが。そう、既に、イデア界が啓かれているのである。ただ、意識がひどく遅れているのである。阿弥陀如来の無量光が差しているのであるが、気がつかないのである。新自由主義イデア界に達しているのである、経済的に。後は、政治、社会、文化的に、そこへ達することが必要なだけである。つまり、近代主義において、潜在していた差異、不連続的差異、聖霊が今や開花したのであり、大地の聖霊(これは、天界の聖霊でもある)のエネルゲイアを意識し取り込む時である。これは、聖霊差異共存主義となるはずである。この差異共存主義が新自由主義と相補併存して、新しい地球文明が生起するだろう。それは、聖霊差異自由主義地球資本主義スーパー・エポックである。根源的自由主義によって、不連続的共存主義が賦活されるのである。