デリダ哲学とは何か:ポスト構造主義の限界とその乗り越え

デリダ哲学とは何か:ポスト構造主義の限界とその乗り越え

西洋の形而上学・ロゴス中心主義を脱構築したデリダ哲学とは、何であったのか。音声言語とエクリチュールの相補性をいわば説いたのだろうし、差延とは、例えば、現在という時間は、既に、過去の知覚を経て経験するのであるから、必然的に遅れるというということであろう。これは、不連続的差異論から言えば、メディア界の事象が現象界では遅れるということだろう。また、エクチュール主義であるが、それは、媒体の問題であろう。音声言語は、観念の透明な媒体、つまり、観念を現前化(実在化ということだろう)させるもので、文字言語は外的で阻害的であるということである。だから、エクリチュール論も、メディア界の問題であると言えよう。また、プラトンのコーラへの言及も、やはり、メディア界の問題と言えそうだ。つまり、イデアを媒介するものとしてのコーラ、メディア界ということだろう。
 以上のようならば、ドゥルーズを含めて、ポスト構造主義は、主に、メディア界の存在を「差異」や「差延」として説いたこととなろう。メディア界はゆらぎの世界で確かに、同一性が「ずれる」世界であるが、これは、連続的差異の領域である。確かに、ポスト構造主義は同一性に対する「ずらし」を鮮明にしたが、連続性と不連続性の区別の問題に明確に関わっていなかった。デリダは、同一性の解体・脱構築には成功したし、ドゥルーズは、主に、連続的差異の多様体を説き、ガタリとともに、不連続的多元性のイメージに近づいたが、正確に言えば、イデア界とメディア界の境界、IM境界に辿り着いたのである。
 結局、不連続的差異論は、ポスト構造主義の乗り越えである。ポスト・ポスト構造主義である。つまり、西洋哲学を脱構築したデリダ哲学、イデア論を差異化しようとしたドゥルーズ哲学を、乗り越えて、現代哲学を統合し、集大成化したと言えるだろう。後は、ホワイトヘッド哲学との関係の検討が残るくらいである。







IM境界の枢軸性:連続性(社会主義)とアンチ連続性(新自由主義)の弁証法の彼岸としての不連続的共存性

後で、検討したいが、簡単に触れると、諸問題のかなめは、イデア界とメディア界の境界、IM境界、 IMBにあると言えよう。この「絶対矛盾的自己同一」の領域において、様々な混乱、混同、混沌が生じるのである。この「カオスモス」を明快明確に提起できただけでも、不連続的差異論のパラダイムの変換的画期性(第三のコペルニクス的転回)があると言わなくてはならない。とまれ、ここで、弁証法が生起するのである。資本主義と社会主義、一元論と多元論、一神教多神教、等々。ドゥルーズ哲学もそうである。ライプニッツベンヤミンもそうだろう。そして、ニーチェでさえ、ここに捉えられている。ここから脱却しているのは、プラトンフッサール、そして、デカルトくらいかもしれない。
 経済で言えば、新自由主義は、市場原理主義であるが、それは、IM境界における連続性の反動であり、アンチ連続性であり、不連続性を志向するが、それは不明快である。また、社会民主主義も、IM境界から発しているが、それは、水平的連続主義となっている。ニーチェの憎んだ同情主義である。これが、癒着を生むのである。しかし、ここには、差異性があるのだろうか。平等主義は同一性主義である。ここに民主主義の問題がある。つまり、社会民主主義は差異から、差異共存性から発しているのか。これは、サルトルにも関係するだろう。社会主義の問題、それは、差異、差異共存性から発しているのか。そう、起源的には、正義を求めていているので、差異共存性があるのだろうが、しかし、それは、連続・同一性に覆われてしまい、自我化している。例えば、共産党のように。ドグマ化である。差異が隠蔽されているのだ。社会主義は、差異への反動性をもっている。やはり、IM境界の矛盾同一性に捕らえられているのだ。新自由主義は、その点、市場原理主義なので、社会主義よりは、不連続性の志向が強い。もっとも、連続性への反動性の側面が強い。結局、両者、IM境界の弁証法の内にある。そこから抜け出せないのだ。問題は、差異、不連続性、共存性を解放することである。今の私の予見を言うと、差異共存的コミュニティと新自由主義的有産階級とに二分化するのではないだろうか。何か、キリスト教誕生前夜になってきた。前者は、おそらく、地方、地域、マイノリティにおいて、形成される。一種コミューンである。後者は、いわゆる、ブルジョワである。この階層二分化が生じるだろう。たぶん、資本家の中でも、前者に共感する者が出てくるだろう。そして、徐々に、差異共存経済コミューンが増加するだろう。それは、他のものと共存するだろう。共存・共立・共生ネットワークが形成されるだろう。