一神教と多神教の構造について:イデア界の相補的力学:新自由主義か

問題点を整理しよう。一神教の起点は何処に有るのかである。

1)イデア界内部
2)イデア界とメディア界の境界、IM境界
3)メディア界と現象界の境界、MP境界

一神教はなんらかの反動、反作用だと思う。歴史的に、多神教の後からである。多神教は、差異共存性をもっている。だから、それは、イデア界の差異共存性から発していると考えられる。そして、それが、メディア界化して、連結性をもち、現象界と連続化する。
 それに対して、一神教は、多神教を否定する意志をもつ。自己絶対的である。他者を排斥する。これは、差異共存性への否定である。これをイデア界の否定と見るのか、それとも、イデア界内部の反動と見るのかが問題である。最近以前までは、これは、イデア界の否定ないし反動と見てきた。しかし、先に、イデア界内部の力学として、差異共存志向性への否定としての絶対的不連続性と見た。また、より以前には、メディア界と現象界の境界における連続・同一性化において、反動性を見た。
 ここで思考実験をしよう。先ず、2が正しいとしよう。その場合、境界で、反転が起こり、イデア界が隠蔽される。つまり、イデア界とメディア界の境界で、多を否定する一の志向が発動するということになる。それは、やはり、自我主義的志向がなくてはならないだろう。すなわち、二つの境界における連続化が連動しなくては、一神教化が起こらないだろう。
IM境界において、差異共存性と差異連結性の矛盾的同一が生起する。そして、一神教は差異共存性を排斥する。この力学が問題である。この両義性に対して、メディア界と現象界の境界、mp境界において、連続・同一性化が生起する。これは、自我化である。この時、im境界の二重性のうちの、差異共存性が排出・隠蔽されるのではないか。ということは、im境界の差異共存性が否定され、差異連結性が肯定されて、自我化されるということになる。しかし、差異共存の否定とは言え、それは、元々存在しているので、一神教は差異共存的多神教を否定しようとするのである。差異共存への否定・排斥の意志があるのである。これが、一神教の破壊主義・戦争主義であろう(ヤハウェ主義)。ということで、これは、2と3の連動ということであった。
 では、1の場合を考えよう。これは、先に述べたように、イデア界の垂直性(不連続性)と水平性(共存性)との相補性力学から見るものであり、メディア界化が水平化によるものであるのに対して、それへの反作用として、垂直化が起こり、共存性や連続性の破壊が生起するということである。問題は、共存性と連続性の関係である。これは、やはり、im境界(略して、imbとしよう。即ち、im-boundaryの略である。)において、共存性と連続性との矛盾的同一・即非が生起する。このいわば混淆が現象界において生起する(例えば、社会主義)。それに対して、イデア界の差異は絶対的不連続性である。これは、この混淆状態に対して、非、否を唱えるだろう。絶対的不連続性を主唱する(新自由主義)。しかし、このイデア界内部から発する力は、基本的には相補的である。確かに、絶対的であるが、差異共存性を完全否定はできない。ただ、連続性を否定できるだけである。旧約聖書を見て、ヤハウェが異教を排斥しようと努力しているということは、異教は究極的には否定できないということを意味しよう。つまり、やはり、垂直性と水平性との対極的争闘がここにあるということになるだろう。一神教多神教との相補的争闘が。結局、一神教は、連続性を否定するのであり、共存性は否定さることはできない。というか。一神教自体、多神教そのものと言えるのである。ここで、D.H.ロレンスが最晩年に書いた『アポカリプスの補遺』を想起する。そこで、ロレンスは、旧約聖書多神教的であると明言しているのである。つまり、一神教多神教なのである。ただ、相補的争闘の関係にあるということである。
 以上のように考えると、一神教は反動ではなくて、反作用であるということになるだろう。(反動と反作用の違いであるが、前者は作用を押さえ込むのであり、反作用は作用から必然的に発生する純粋な力である。)

 さて、以上、二つの思考実験をしてみた。

1.二つの境界の連動、反動的連動
2.イデア界の相補的力学の作用・反作用

この二つの結論が出たのであるが、どちらが正しいのだろうか。1は従来の考えであった。2は最近の考えである。今の直観では、2の方がやはり、正しいように思える。また、その方が、簡潔であり、明快である。なぜならが、1の場合、反動がうまく説明できないからである。この点、かつて、高貴な差異、劣弱な差異云々のような区別、あるいは、自然力の豊かさ、乏しさの相違というような考えを提起したが、それは、必ずしも、整合的ではない。しかし、2ならば、極めて整合的に説明できるのである。細部、各論は無視して、大局、総論を見るならば、2の方が優れていると判断できる。
 だから、先にも述べたが、一神教、絶対的不連続性、新自由主義は、差異共存性を内在していると考えることができるのである。これは、ニーチェフッサール哲学の力学である。新自由主義ニーチェ的であるが、同時に、それは、フッサールを内在している。即ち、差異共存共創主義である。結局、これは、繰り返すが、個体差異自由共存経済(イデア界経済学)を意味する。初期マルクスの個体経済学である。悪魔は天使を潜在させている。
 では、これをイデア界=ガウス平面で考えるとどうなるだろうか。1/4回転は、水平化・多神教化であろう。そして、それに対して、垂直力が作用・反作用する。これが、2/4回転を生む。これは、一神教化であるが、しかし、共存性を内在している。そして、さらに、3/4回転して、新たな多神教化となる。そして、再び、4/4回転して、原点回帰となる。これは、一神教化であるが、しかし、共存性を内在している。
 ならば、問題は、原点の一神教=差異共存性である。これは、正に、イデア界の原点である。差異共存性が一神教となるのである。即ち、正しく言えば、一神教とは絶対的不連続性のことである。思えば、ニーチェ新約聖書を罵倒、愚弄し、旧約聖書やナポレオン等を賛美、肯定していたことを想起する。これは、一神教というよりは、絶対的不連続性の肯定と見るべきである。そして、力への意志も同様に理解すべきであろう。しかし、これは、同時に、共存性(志向性)が潜在していることを認識・確認しないといけない。絶対的不連続性/共存性なのである。この点は、本当はフッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で説いていることである。そこには、絶対的不連続性/共存性の相互主観性(間主観性)が説かれているのである。そして、生活世界とは、初期マルクスの「共産主義」である。しかし、これは、共同主義とすべきである。(差異共存主義である。)結局、新自由主義は、差異から発動しているのであり、それは、差異共存へと志向するのである。差異の開花であり、ルネサンスルネサンスである。

p.s. 思うに、1と2とを結合させた見方の方がよくはないかと思った。イデア界の不連続性の反作用が生起する。それは、共存/連結/連続化を否定する。この時の「自我」の問題である。不連続性の反作用はヤハウェの「われ」である。これが、反作用というよりは、反動に「見える」のである。ここは微妙な、重大な問題である。水平力の発動に対して、垂直力の反作用が生じる。これは自然である。垂直力が発動すると、それは、水平力の発現に対して、反発するように見えるのである。反動のように見えるのである。そう、旧約聖書ヤハウェは猛烈に嫉妬深いのである。このルサンチマン(怨恨)はどこから発するのか。単に、反作用ならば、それは生じないのではないだろうか。どうして、嫉むのか。嫉みが発生するのは、同一視があるからである。同一性があるからである。つまり、もし、純粋な不連続性ならば、嫉みは生じるはずがない。だから、ヤハウェは、同一性を帯びているのである。だから、同一性を帯びた不連続性という混淆がヤハウェにはある。これは、やはり、IM境界的事象に関係するように思う。つまり、IM境界(imb)における、作用と反作用であろう。水平作用は、連結・連続化へと進展し、現象化する。しかし、ここでの反作用は、両義的になる。即ち、水平的連結・連続化への反作用であるが、この境界imbは、矛盾同一(西田哲学の絶対矛盾的自己同一)なので、反作用は、イデア界の作用/反作用のようには、純粋にはならずに、混淆・混同的になるのである。だからこそ、ヤハウェは偏執的に嫉妬深いのである。ということは、一神教の発生構造とは、イデア界の垂直/水平力の相補力学と同時に、IM境界における垂直/水平力の矛盾的同一性に基づくと言えるだろう。すると、結論が変化して、一神教発生構造とは、イデア界内部とIM境界との複合性によると考えられることとなる。
 すると、一神教である新自由主義はどうなるだろうか。それは、やはり、純粋ではない。差異共存性に対して、嫉みをもっているのだ。差異共存性への言わば、ルサンチマンがある。ここを脱却しないといけない。脱新自由主義である。ポスト新自由主義である。これは、ポスト構造主義、とりわけ、ドゥルーズの混乱と通ずるものがある。思うに、ニーチェ哲学も、そのような面があるだろう。差異共存への嫉みがあるだろう。本当は、不連続性への純粋化が必要なのだ。差異共存への嫉みと怨恨があるのだ。だから、新自由主義も早晩、社会主義的となるだろう。革命のもつ弁証法がある。
 では、どうしたらいいのだろうか。理論的には、IM境界、imbから脱することである。imbにおける垂直的反動が、水平的システム(国家)を嫉み、市場原理主義を生んでいるのである。しかし、この嫉妬は、水平的システムと一体(同一性)だから、国家主義的になる。独裁的になるだろう。市場原理国家独裁主義である。ポイントは、イデア界の垂直性、不連続性である。これは、本来、差異共存志向をもつのである。ここで、端折って言えば、自由市場性と差異共存システムの相補的システムが必然であるということである。これまでの公共投資型資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義は、水平主義であり、垂直を排してきた。しかし、新自由主義は反動であり、今度は、水平性を排して、垂直主義である。つまり、社会主義社会民主主義)と自由主義との自己同一的な二元論、弁証法がここにあるのであり、両者の超克はここではありえない。二元論的反復があるのみである。だから、本質は、この弁証法から脱出することである。つまり、イデア界の差異の不連続的共存性を肯定する経済を志向すべきであるということである。これは、差異共存的自由市場経済システムということになるだろう。差異共存と自由市場との相補経済である。共同主義と資本主義の統一である。それは、自由共存資本主義であろう。自由共存主義である。自由共存資本市場が成立するだろう。共存資本である。これによって、新自由主義社会民主主義との弁証法から脱出できるだろう。
 





天使とは何か:天使、妖精、スピリットとしての不連続的差異?

西洋の伝統的な文化には、天使、あるいは、天使の階層がある。これは、何だろうか。例えば、受胎告知の大天使ガブリエル。不連続的差異論から見たら何だろうか。力を意味する言葉が、そこにはある。それは、不連続的差異(複数)ではないだろうか。不連続的差異としての天使たちが、人間界に参入するのではないだろうか。これは、可能である。ここで、シルクロードの仏教壁画を想起する。天使のような天女たちの浮遊。
 妖精も不連続的差異ではないだろうか。すると、スピリット(精霊)と呼ばれたものは、不連続的差異ということになるだろう。

参考:
天使の世界
http://www.angel-sphere.com/

妖精美術館
http://www.town.kaneyama.fukushima.jp/yousei3.html

精霊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%9C%8A






個体差異自由共存経済と輪廻転生

差異への志向とは、これは、イデア界への志向である。それは、自我に囚われた多くの衆生には、理解できないものである。仏教の空とは、イデア界を指向している。しかし、差異への志向を早く悟った者たちもこの世にはいる。かれらは、いわば、差異者である。覚醒者である。目覚めた者、仏陀である。しかし、現世、娑婆に染まったどん欲な者たちは、輪廻転生を経て、差異覚醒へと転化するのではないだろうか。とまれ、輪廻転生を経て、人類は、個体差異自由共存経済を構築するようになるだろう。これが、初期マルクス共産主義であろう。
 とまれ、現世では、悟らぬ、度し難き縁なき衆生は、来世で学習し、仏陀となるだろう。それは、個体差異自由共存経済へと向かうだろう。そう、仏陀とは、また、イデア界の力のことだろう。不連続的差異の共存体が仏陀であろう。華厳宇宙とはイデア界のことだろう。阿弥陀如来イデア界であり、仏陀である。光背、後光とは、イデア界の超光のことだろう。浄土もイデア界である。曼荼羅イデア界のことだろう。
 思うに、悟り覚醒した仏陀は、死んだとき、何処へ行くのだろうか。凡人は輪廻転生を繰り返す。仏陀は、イデア界へ回帰するのだろう。思うに、一つ一つの差異が仏陀ではないだろうか。多数、無数の仏陀たち。イエス教では、父の国だ。エデンの園。思うに、仏陀たちの力が現世に作用しているのではないか。そうだろう。イデア界の力、仏陀たちの力が現世、現象界に作用しているだろう。これが、現世を個体差異自由共存経済へと向かわせると言えるだろう。