ポスト新自由主義へ向けて:単純利己主義から相互利己主義へ:個体差

ポスト新自由主義へ向けて:単純利己主義から相互利己主義へ:個体差異自由経済=個体差異共存経済

新自由主義とは、資本主義の純粋化である。国家の規制を最小として、市場原理を絶対とするのである。しかし、市場とは何かである。というか、それ以前に、交換価値とは何かを考えなくてはならない。これは、量的価値でああり、マルクスが説いたように、一般的価値であるが、しかし、単に一般的価値だけではなくて、個人の力と結びついた価値であろう。つまり、これは、イデア界と結びついていると考えられるのではないだろうか。そう、交換価値とは、きわめて、現象界的である。あるいは、自然的である。不連続的差異の連続・同一性化である現象界と一致すると言えよう。自然のもつ仮象性と結びついているだろう。だから、これを解体するのは容易ではない。それは、いわば、反自然的行為が必要である。資本主義、新自由主義は自然なのである。そして、この自然は、破壊的なのである。エントロピーの増加である。死へと邁進している。結局、新自由主義は、自然のいわば摂理である。破壊的自然である。ここで、シェイクスピアの『リア王』のグロースターの私生児エドマンドを想起する。彼とゴネリルとリーガンが「新自由主義」的自然である。この破壊衝動は何なのだろうか。これは、一神教的衝動である。ヤハウェ的衝動である。我有り有りて、有り余れるものなり。これは、イデア界の過剰、イデアエネルゲイアディオニュソス的なものである。小泉首相ディオニュソス的である。私はこれまで、一神教的衝動を反動として捉えてきた。しかし、連続・同一性という自然のシステムから見たら、反動ではないのではないだろうか。ならば、多神教はどうなるのだろうか。
 ここで、再点検しよう。イデア界とメディア界の境界、IM境界で、最初の連続化が起こる。そして、メディア界と現象界との境界、MP境界で、自我化が完成するだろう。しかし、ここで、多様性を自我統合しようとするだろう。自我中心的に、他者を統括しようとするのである。だから、多神教一神教との「差異」とは、このメディア界と現象界との境界、MP境界にあると言えるだろう。両者、IM境界は共通である。しかし、MP境界において、相違が生じる。多神教は、IM境界の差異共存性を肯定しつつ、「自己実現」する。つまり、 MP境界は、形式⇒個体現象というようになる。しかし、一神教においては、捩れが入るのである。差異共存性を捩じ伏せるようにして、自我統合を図るのである。この捩じ伏せが問題点である。この起点はどこなのか。もし、差異共存志向性があれば、それを捩じ伏せないといけないだろう。だから、この起点は、MP 境界ではなくて、IM境界となるだろう。ここで、作業仮説であるが、IM境界において、90度回転に対する反動が生じるとしよう。それは、メディア界化に対する反動・反作用である。つまり、差異共存から差異連結化への反動・反作用である。つまり、不連続的差異性の反作用ではないか。これが、一神教の起源・震源・起動点ではないだろうか。水平化に対する垂直化の反動・反作用・反発である。だから、差異共存性に基づくメディア界的多様性である多神教を否定しようとするのではないだろか。つまり、これは、ガウス平面で言えば、さらに90度回転ということで、180度回転、1/2回転ではないだろうか。しかし、さらに、これが、90度回転するだろう。270度回転、3/4回転である。これは、新たな差異共存/差異連結化であり、これからさらに90度回転して、4/4回転で、回帰する。つまり、根源の起源回帰である。
 とまれ、一神教とは以上のようなものとするならば、差異共存性を破壊し、無、カオスへと向かう。というか、連続・同一性を破壊するのであり、差異を志向しているのである。連続・同一性を徹底的に破壊するのである。それは、新たな差異共存性を志向していると言えるだろう。
 ここで、経済に適用すると、一神教とは新自由主義であり、それは、連続・同一性である国家資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義を破壊する。その市場主義とは、不連続性の志向である。そして、その不連続性は、差異共存性を志向するに違いない。その差異共存的経済とは何だろうか。それは、個体的差異に基づく経済である。若きマルクスの経済学だろう。フッサールの生活世界である。ロレンスの『死んだ男』である。折口の『死者の書』である。個体的差異を単位とする経済である。それは、IBMのような企業では実際起こっている事象である。個体的差異的経済である。そのための、市場経済である。新自由主義は、個体差異的自由経済を内在・潜在している。悪魔の新自由主義は、天使の個体差異自由経済を内在させているのだ。結局、私が言う差異共存主義とは、このことではないだろうか。個体差異自由経済が、差異共存主義ではないか。個体差異は明らかに、共存共創するだろう。なぜなら、差異はそういうものだからだ。






近代的二元論を超えて:認識的存在論・存在的認識論:超知性体理論的資本主義⇒生活世界

思惟と延長というデカルトの二元論。スピノザは、それを、心身平行論という形で、統合化した。しかし、不連続的差異論から見ると、それは、やはり、二元論である。ここで、フッサール現象学を考慮する必要がある。それは、近代的二元論を超克する哲学・理論であるからだ。近代的二元論をエポケー(判断停止)して、根源の「主観性」である志向性を取り出したのである。これは、カントの超越論的形式論をはるかに超えている。カントのは、いわば、形相論に過ぎない。それに対して、フッサールは、形相論より根源的な世界を取り出したのである。それは、不連続的差異論から見ると、イデア界である。イデア界における不連続的差異の作用をフッサールは指摘したのである。「主観性」とは、実際は、超主観性・超客観性であり、いわば、根源性と言うべきものである。根源性ではまだあいまいなので、もっと明確すると、ある不連続的差異の、他の不連続的差異に対する、志向性(指向性)である。いきなり、結論を言ってしまったが、これまで、この領域を、融合的統一体として捉えてきたと言えよう。西田哲学の絶対矛盾的自己同一であるが、これは、まだ、イデア界に達していない学説のように思える。自己同一となるのは、メディア界ないしイデア界とメディア界の境界(IM境界)においてである。イデア界には、同一性はないのである。ただ、不連続的差異性があるだけである。不連続的差異の共存・共立性があるだけである。
 さて、本論に戻ると、フッサールの志向性とは、イデア界における不連続的差異の志向性ということになる。即ち、「主観性」とは、イデア界の「主観性」=志向性である。そして、この「主観性」とは、存在的且つ認識的である。私はこれまで、仮説的に、知即存在と呼んだが、それは間違っていないだろう。換言すると、フッサール現象学はすでに、ハイデガー存在論を内包していると言えよう。私見では、ハイデガーは独創的というよりは、フッサールの必然的展開に過ぎないのである。独創的天才性(大天才性)はフッサールにある。つけ加えると、ドゥルーズガタリの内在平面という考え方も、実は、この展開である。ただし、彼らは、ニーチェフッサールが逃れていた連続論をおぞましくも取り込んでしまったのである。(やはり、躓きの石は、ハイデガーだろう。ハイデガー存在論的差異とは、フッサールの「主観性」の単独性・特異性を喪失しているのだ。思えば、ハイデガーニーチェ形而上学者と呼んでいるが、これはまったくの錯誤であろう。ニーチェはポスト形而上学者である。私も昔、勘違いしたものだが。そう、ニーチェの絶対的不連続性をハイデガー形而上学的次元と見たのではないだろうか。ニーチェは、内在的な絶対的不連続性を説いているのであり、それは、不連続的差異論的である。)ここで、現象学ポスト構造主義の問題がある。フッサールからハイデガーへの展開とは、極論すれば、理論的後退と見るべきである。ハイデガーはいかがわしいように思える。存在論的指向は、すでに、フッサールの「主観性」にあるのである。これは、テクストを読めば、わかることである。そして、後退した現象学を受けて、ポスト構造主義が起こったと言えよう。だから、後者は必然的に後退した理論なのである。つまり、ニーチェフッサールという不連続的差異論の先駆から後退しているということである。
 ということで、フッサールの「主観性」は、存在かつ認識(認識即存在)、知即存在というものと考えられる。【だから、フッサールの生活世界とは、イデア界的な社会である。それは、青年マルクスの個体的生活(「共産主義」)に通じるだろう。そう、若きマルクスイデア界に通じていたのであるが、それが、後年、構造主義に退化した。つまり、メディア界的構造主義であり、イデア界的創造主義ではない。因みに、資本主義は、必然的に、このイデア界的生活世界に向かうだろう。これは、長い道のりではあるが。永遠革命、長い革命。】
 思うに、このイデア界が、本当の量子論の世界ではないだろうか。粒子/波動の相補性とは、メディア界的なものである。超ひも理論とかツイスティ理論とかは、思うに、イデア界的発想である。また、インテリジェント・デザイン論もそうである。イデア界が転じてメディア界になり、そこに、前「粒子」と前「波動」が生起して、現象化するということではないだろうか。そう、重力も同様に考えられないか。すなわち、差異連結体の差異の側面が重力に関係するのではないか。そして、強度は光の方に関係するのだろう。つまり、量子論的重力論があり、それと相対性理論とが相補性をなすと言えるではないだろうか。すると、量子論的重力論的相対性理論である。
 さて、結局、近代的二元論の超克としての不連続的差異論であり、それは、新しい知即存在、認識即存在という理論を提起している。物質とは何か。それは、知即存在、認識即存在の一面に過ぎないのであり、精神も同様である。根本は、知=存在、認識=存在という根源である。これを、何と名づけようか。不連続的差異、イデアであるが、もっと簡明にすると、知存在、認識存在であろうか。知存、認存、知有、知在、識有、識存、識在等々である。超越論的知的存在である。もし、神という言葉が使えるならば、それは、これを指しているだろう。確かに、全知全能ではあるが、これは、デュナミスとしてである。エネルゲイアとしてではないだろう。とまれ、超知存在である。超インテリジェンスである。そう、スーパー・インテリジェンスである。超知、超智である。超知性体である。超知性体理論である。 
 最後に、付加すると、これと資本主義はどう関係するだろうか。資本主義は、差異を創造しないといけないから、結局、この超知性体理論に行く着くはずである。超知性体理論的資本主義である。しかし、こうなると、まさに、フッサールの生活世界となるだろう。