ナショナリズムの哲学試論:ポスト・ナショナリズムとしての個人主義

ナショナリズムの哲学試論:ポスト・ナショナリズムとしての個人主義

国民国家ナショナリズムにしろ、封建的ナショナリズムにしろ、ナショナリズム民族主義)の発生構造は何だろうか。
不連続的差異論から見ると、民族とは何だろうか。これは、これまで、あまり考察して来なかった問題だが、宗教問題に関して、ナショナリズムに言及した。日本の場合、国学が、キリスト教一神教的要素を取り入れて、日本に天皇一神教イデオロギーを形成したと考えられ、それが、明治維新国民国家に帰結したと考えられる。問題点は、明治国家を形成した天皇一神教イデオロギーと日本民衆の宗教性である。私見では、日本民衆の宗教性は、受動的な自然崇拝が中心であり、ここでは、一神教多神教というような区別はあまり意味をなさないと考えられる。基本は受動的な自然崇拝だと思う。神仏習合はそのような意味があると考えられる。
 だから、日本のナショナリズムと言ったとき、それは、このような宗教性を背景にした民族を考えなくてはならないだろう。受動的自然崇拝であるが、これは、受動感情であるから、反動性をもつだろう。つまり、主体的意識は欠落している。また、感情とは、何だろうか。これは、メディア界における心身一体性における感覚反応の一つであるが、それは、知的意識を連続・同一性化する一種非合理主義的事象である。それは、差異の連続・同一性化の一種であると考えられる。差異の溶解である。これは、対象との連続・同一性化である。一種神秘主義と言ってもいいだろう。即ち、感情のもつ対象との連続・同一性化である。ここでさらに欲望との連鎖を考えると、感情・欲望は、正に、文化人類学者ルネ・ジラールのいう模倣欲望暴力につながるだろう。
 ということで、日本のナショナリズムの基盤として、民衆の受動感情性、メディア界的対象連続・同一性の「欲望」を見ることができた。この基盤の上に、権力への意志が生じて、ナショナリズムになると言えよう。もう少し、丁寧に見ると、ここで、言論、言説、メディア等が重要な働きをするだろう。即ち、その基盤に上に、イデオロギーの枠組み、網が投げられて、基盤の受動感情が加工されて、ナショナリズムになるのである。内在的メディア界に外在的メディア界が働き掛けて、イデオロギーとしてのナショナリズムが生じるのである。(先の衆院選挙が典型的であろう。)
 ならば、現代、ナショナリズムからの解放が必要と考えられるので、それをどうしたらいいのか考えると、ここでは、現象学的還元やスピノザ的能動的観念や仏教の解脱方法等が必要である。私見では、個人の感情への能動的意識化が必要である。自分の感情へ知性を測深させることである。そして、自己感情を理性的に分析することである。そこには、おぞましい感情が渦巻いているはずである。これをある意味で、解消しないといけない。感情に知性のメスを入れないといけない。そして、感情をコントロールするようにしないといけない。東洋の身体論はそれに役立つだろう。結局、ナショナリズムの超克とは、主体の能動化、主体の知的能動化を意味するだろう。では、それによって、ナショナリズムはどう変容するのだろうか。
 主体の知的能動化ないし現象学的還元によって、ナショナリズムは解体して、個化されるだろう。コギト化されるだろう。個人主義化するだろう。個人と民族、国家の間に境界、距離が生まれるのである。この個人主義は、国際主義に通じるのである。それは、靖国問題を解決するだろう。なぜならば、もはや、個人は、A級戦犯戦没者、「英霊」と連続・同一性化していなからであり、第二次世界大戦に対して、公平な目をもって、考察するだろうからである。アジアの犠牲者に対しても、公正であることができるのである。これは、個人主義的国際民主主義である。

p.s. 日本民衆の宗教として、自然崇拝の他に、アニミズムシャーマニズムを当然考えなくてはならないが、それら三者、メディア界の事象であると考えることができる。御霊信仰もあるが、それは、シャーマニズムの派生と考えられる。結局、メディア界宗教として、日本民衆の宗教を捉えればいいだろう。ただし、仏教や神道は、本来、イデア界的であるとしないといけない。しかし、日本民衆において、それが、集団的表象(メディア界)に溶け込んでいて、劣弱なものになってしまっていると考えられる。明治維新革命は、イデア界的である。小泉首相も、反動ではあるが、イデア界につながっているようだ。





現象学の差異論化としてのポストモダニズム:結晶としての不連続的差異論

以下のクォリア理論の説明は、やはり、現代哲学をはずしている、物質中心主義的発想である。日本の科学者における哲学的遅れがある。ポストモダニズムが、現象学を乗り越えようした事態であることを、理解していない者が多いようである。簡単に言えば、現象学の差異化をポストモダニズムは志向していた。物質的次元の差異化ではないのだ。超越論的差異論、プラトニズム的差異論を志向していたのであり、この志向は、結局、不連続的差異論として結晶したと考えられるのである。
 また、今日、思うに、ポストモダニズムを経てきていない学術がたくさんあるように思われる。しかし、問題点は現実に残っているのであり、理論的に回避しようとしても、ポストモダニズムの志向した問題を究明せざるをえないであろう。そう、超越論的形式ないし構造までは、行き着いたのであるが、そこから、後退しているのだ。構造を差異化しようとして、混乱してしまったのである。構造は、超越論的次元にあるのだから、差異化は、当然、超越論的次元で起こるのである。柄谷行人は、この点で、失敗挫折したのである。 
 では、これを具体的に考えるとどうなのだろうか。使用価値/交換価値の相補性を考えてみよう。これは、差異価値/交換価値と換言できある。今日、資本主義は、差異価値に基づいているだろう。差異化である。ファッションを見れば、わかりやすい。差異化、個化、特異性化である。これは、超越論的差異の次元から発している。つまり、イデア界から発しているのだ。今日、21世紀資本主義は、イデア界的である。この意味を捉えない政治・経済は致命的である。郵政民営化、「改革」とは資本主義の論理であり、民主党が敗れたのは、社会主義的論理、官営資本主義の論理を残していたからだろう。確かに、首相はパフォーマンスという点で問題点があるが、しかし、首相は「郵政民営化」、「改革」という特異性を強調したことを認めないといけない。小泉首相の論理は不連続的差異論的ではないだろうか。新自由主義は、不連続的差異論的ではないか。もっとも、すべて肯定しているわけではなくて、ポスト新自由主義、脱新自由主義を考えてのことである。
 思うに、新自由主義には、超越論的差異の次元があるように思える。これが、新しい資本主義である。脱近代的資本主義である。ポストモダン資本主義である。現代、この転換期にあるようだ。新自由主義は、不連続的差異論を内在・潜在しているだろう。これを全面的に展開する必要があるだろう。反動はだめである。柄谷行人のように近代主義に逆行してはおしまいである。とまれ、新自由主義は、差異化を徹底するはずであり、それは、自らを超克しなくてはならないだろう。何故ならば、グローバル経済は閉鎖系だからである。差異を創出しなくては、新しい秩序は生まれないからである。新自由主義という悪魔は、天使を内在させているだろう。悪魔/天使的新自由主義である。 
 後で、もう少し考察を続けたい。


クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です。クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように形成されてくるかということは、私たちの脳における情報処理を特徴付ける「統合された並列性」を解く上で重要な鍵になっています。クオリアの研究は、私たちの意識、主観的経験が物質的過程であるニューロンの活動からどのように生まれてくるかを明らかにする上で本質的であるとともに、C.P.Snowの言った「二つの文化」の間の溝を埋める可能性につながります。「クオリアマニフェスト」は、未来において科学的及び文化的に重要な意味を持つであろう「クオリア」を巡る人類の知的挑戦に関するミッション・ステートメントです。」
クオリアマニフェスト


http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html






日本の封建主義、ナショナリズム国民国家主義:日本人は目覚めるだろうか

少し整理すると、

1.封建主義的ダブル・スタンダードがある。
2.封建的ナショナリズムがある。
3.国民国家主義的ナショナリズムは少ないだろう。

これで、現代日本の政治社会状況がわかるのではないだろうか。
もし、国民国家主義的ナショナリズムがあれば、アメリカへの忠心はなくなるだろう。それは、戦前において支配的であったと言えよう。つまり、天皇制的一神教と結びついてた。しかし、戦後、人間天皇制で、それが解体した。つまり、国民国家主義は解体した。そして、アメリカを「領主」とする封建体制にもどったと言えよう。
 では、民主主義はどうなったのだろうか。これは、政治形態としては、戦後維持されている。男女同権間接民主主義である。しかし、民主主義の問題は、主体性の問題である。封建主義へと後退した場合、民主主義は、その本質的な意味を喪失して、いわば衆愚主義となるだろう。これが、現代日本であり、先の倒錯的衆院選挙に如実に現れている。
 前のブログで触れたが、首相の靖国参拝は、上の1と2に拠ると言えよう。これは、アメリカ忠心と結びつき、外交において、東アジアで摩擦を起こし、経済の阻害を起こす。
 ここで、首相の「改革」主義であるが、その発想はどこから来ているのだろうか。これは、アメリカへの忠心から来ているのだろう。アメリカ的新自由主義経済信仰である。つまり、首相の封建主義からいわば、偏執狂的に生じたと言えるのではないか。
 では、封建主義は、どういう精神構造をもっているのだろうか。それは、当然ならば、受動的精神構造である。ある力の主体が存在して、それに対して崇拝的態度を取るのが封建主義精神であろう。ある力とは、宗教的なものであるかもしれないし、また、権力的なものであるかもしれない。思うに、自然宗教多神教は、自然=神を崇拝するものであり、受動的であり、これが、封建主義の基底にあるだろう。つまり、日本の封建主義は、自然宗教多神教デカダンスがあると考えられる。個が主体となるのではなくて、自然や権力が主体であり、「民衆」は、それらに対して受動的な、崇拝的な態度をもつと言えよう。これは、また、当然ながら、日本父権制、男尊女卑と通じている。
 ということで、日本人の精神構造の基盤にある封建主義、受動・崇拝的態度が、現代日本の政治状況を生んでいると考えられる。すると、これは、前近代的である。近代主義は、近代的自我をベースにしたが、近代的自我が乏しいのである。近代的自我とは、利己主義である。利己的主体主義である。しかし、現代日本人は、この近代的主体性が一般に欠落している。思うに、支配層は、官僚層にはこれがあるだろう。 
 しかし、世界は今やポスト近代主義である。これは、近代的自我のもつ連続・同一性的合理主義を解体して、差異的な知識を基盤にしている。すると、現代日本は、いわば、二周遅れである。前近代とポスト近代である。そして、脱ポスト構造主義である不連続的差異論を考えると、三周後れである。現代日本の「国民」の退行が激しいのである。
 結局、問題はどこにあるのだろうか。どうして、日本封建主義を解体できないのだろうか。面白いのは、首相の封建主義が、日本の封建的社会主義的構造(利権構造)を破壊していることである。小泉氏の場合、普通の封建主義とは異なり、ある種の力が内在していると思えるのである。それは、イデア界の力の反動であろう。つまり、首相の場合、近代的自我、利己主義があるのである。これが、日本封建的社会主義を破壊しているのである。だから、首相の精神構造は、封建主義+近代的自我主義と言えるだろう。首相は、一般の現代日本人よりも、進んでいるのである。というか、現代日本人がいわば退化しているのであるが。
 では、小泉革命は封建体制の破壊を行なっている。それは、形態からは、明治維新に近いだろう。幕藩体制の破壊である。ようやく、近代主義となるのであるが、それからポスト近代化しないといけない。どうも、日本においてポストモダンバブル経済的文化と捉えられているようだ。そうならば、「ポストモダン」とは、ハイパーモダンに過ぎない。真のポストモダンはこれからである。結局、脱封建主義である。これが、日本ルネサンスの核心となろう。アメリカが日本封建体制を利用して、支配しているのである。そして、封建主義的な国民は、アメリカの覇権に怯懦である。
 だから、脱封建主義のためには、個的、差異的革命が必要である。個的主体、差異的主体の革命である。これは、本来、イデア界から為されるのであるが、イデア界は特異性の領域であり、これを現代日本人は恐れているのである。封建的怯懦・恐怖である。これは、また、戦後近代主義とも関係していると思う。戦後の近代科学教育は、物質主義的であり、哲学、思想、英知学を排除しているのだ。あるいは、宗教学や神話学を排除している。個を涵養するには、哲学が絶対的に必要である。創造性にも必要である。つまり、戦後教育には、理論的偏りがあるのである。哲学という科目が、義務教育にあるだろうか。(philosophyに対する哲学という西周の訳語が、欠陥があるとは思う。)結局、日本は生まれ変わるしか、未来はないだろう。僭越ながら、不連続的差異論は再生の理論となりうるのである。
 とまれ、新自由主義で、ほぼ階級制が生じるだろう。日本人は目覚めるのだろか。






靖国参拝とはナショナリズムか、それとも似非ナショナリズム

私は先に靖国参拝ナショナリズムであると述べたが、日本人のナショナリズムは抑えられているという考えを知り、考え直す必要があると感じた。確かに、純粋にナショナリズムを考えると、アメリカに「隷属」しているのはナショナリズムではないだろう。いわば、アメリカニズム的ナショナリズムで、一種折衷的なものである。
 ここで、考えたのは、日本人の精神の「ダブルスタンダード」である。森鴎外の『阿部一族』に、「義は義である。情は情である。」という柄本又七郎の言葉がある。つまり、幕府の掟は掟であり、個人的情は情であるということで、「道徳」と「人倫」との分離が表現されていると考えられる。「道徳」は、官的なものであり、「人倫」は、個的なものである。しかし、公的なものは、この場合、官的なものの方に考えられているだろう。つまり、(森鴎外自身の問題もあるが、)「公民」が官的なものになって、個的「公民」になっていないのである。簡単に言えば、公=官になっているのである。これが、封建主義というものであろう。そして、この精神が、日本人にいまだに深く存しているのではないだろうか。つまり、主従関係の体制である。これが、現在、「主」(領主)がアメリカで、「従」(臣民)が日本である。
 このように封建体制で考えた方が、ナショナリズムというより、正鵠を射ているのではないだろうか。つまり、靖国参拝は、疑似ナショナリズムで、実体は封建体制である。封建的疑似ナショナリズムとしての靖国参拝である。だから、先の倒錯的衆院選挙もこれで説明がつくだろう。民主主義的政治体制ではあるが、国民の精神は、封建体制であるのである。 
 この観点から、戦後や現代を見るべきなのだろう。また、戦前もそうだろう。問題は、精神の民主主義の行方である。思うに、明治維新に二重性があったろう。即ち、勤王主義は、キリスト教的で、天皇一神教の下での「民主主義」を志向したのではないか。そして、戦後、天皇人間宣言で、この勤王主義が崩壊して、「民主主義」の「魂」(=イデア界)が喪失したのではないか。政治形態は、確かに民主主義(間接民主主義)になったが、国民の精神は封建体制に戻ったのではないか。この問題は、アメリカの支配と関係しているので単純ではない。つまり、朝鮮戦争関係で、アメリカの覇権主義に日本は組み込まれて、アメリカは日本の封建体制を利用するようになり、戦後民主主義が破壊されるようになった。これが、55年体制であり、自民党体制である。これは、社会主義的資本主義、封建的資本主義であった。(先の衆院選挙は、この破壊であったが、しかしながら、精神としては封建制が基礎であろう。)アメリカの覇権の下、日本人は、「魂」の民主主義や戦後民主主義を喪失していった。これは、哲学的には、個の問題である。自我(エゴ)はあるが、個がない。だから、ナショナリズムも、封建的であり、自我的であるが、個的ではない。
 少し複雑になったが、結局、日本の衰退、衰滅、没落が現れてきたように思う。おそらく、新自由主義で、弱者は零落していく。そして、ますます、アメリカに隷従する。しかし、アメリカは日本を利用するだけだろう。日本は、二流、三流国となる。個の問題である。差異の問題である。これからのポスト新自由主義とは、差異の問題である。この点で、日本人は決定的に退行している。縁なき衆生は度し難いというところだろう。思うに、不連続的差異論は、日本ではなくて、外国で支持されるようになるだろう。私は英語でこれを出版した方がいいだろう。






イデア界の力学について:仏教とイデア界:ポスト・新自由主義としての新天地創造へ向けて


ガウス平面のイデア界があり、そこでは、例えば、不連続的差異d1は、d1+0・iとして表記できる。そして、90度回転して、0+d1・iとなる。実数軸は、当然、水平性であり、虚数軸は、垂直性である。しかし、ガウス平面において、水平性は、共存性ではないか。垂直性は、不連続性(分立性)ではないか。問題は、90度回転である。ここにおいて、差異は、水平的共存性を喪失して、確かに、0(ゼロ)となる。つまり、連続化を意味すると考えられよう。しかし、問題は、垂直性である。90度回転で、d・iとなる。しかし、実際は、0+d・iである。この実数の0が重要である。0があるのである(存在)。だから、共存性は無に見えるが、実は、ゼロとして存している。そして、垂直性であるが、これは、不連続性であるが、この場合は、分立性である。これは、連続性の分立性を意味するのではないだろうか。つまり、連続的個体性への潜在性ではないだろうか。換言すれば、連続的個体性の原型・「イデア」であろう。メディア界という連続的差異=微分を、この90度回転(1/4回転)は意味しているだろう。
 さて、ここで、大乗仏教の「空」(くう)を考えてみると、これまでは、メディア界の事象と考えてきた。しかし、ガウス平面における1/4回転によって、差異の実数の0(ゼロ)を、「空」と見ることができるだろう。しかし、問題は、このゼロ化によって、不連続的差異が連続化することである。共存性がゼロであり、分立性によって、連結・連続・同一性化する。だから、このゼロ化を「空」とするならば、「空」とは、イデア界とメディア界の境界の事象であると言うのが的確だろう。このIM境界は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一に相当する。
 では、これまで、メディア界を「空」としてきたこととこれとはどういう整合性があるだろうか。メディア界とは連続的差異=微分、原型・類型・形相の領域である。構造主義の領域である。これは、また、相補性、陰陽的対極性の領域である。簡単に言えば、+との二元論の世界である。無と有との一致の領域である。一種弁証法の世界である。量子論の領域、相対性理論の領域である。差異が連結化して、差異連結と強度が不可分一体の領域である。また、ポスト構造主義脱構築の領域)である。
 ということで、IM境界とメディア界の両領域を「空」と呼べるのである。しかし、大乗仏教は、仏性を説くのであり、それは、私見では、超空だと思う。プラトンイデアと同じように、仏教の空も、複雑だと思う。基本的には、IM境界であり、メディア界であるが、仏性という点では、超空になっていると思う。華厳経の調和宇宙は、イデア界だと思う。この空の哲学は、だから、少し問題があると思う。後で、検討したい。
 
p.s. IM境界(イデア界とメディア界の境界)とメディア界は、「空」と言っていいだろう。なぜならば、IM境界では、不連続性と連続性との絶対矛盾的自己同一性が存在して、「無」であり、かつ「有」であるからである。また、メディア界においては、連続的差異の多様体があり、それもまた、対立性の統一だからである。即ち、粒子であり、また、波動であるからである。あるいは、イデア極(IM境界をメディア界から見たもの)と現象極(MP境界をメディア界から見たもの)との相補性があるからである。即ち、前者においては、「無」の志向性、後者においては、「有」への志向性があるからである。
 では、イデア界が超空であるというのと仏教の関係はどうなのだろうか。実体がないという意味では、メディア界は多様体であるから、現象界的な実体性はない。ゆらいでいるので、実体性はない。しかし、仏教の空とは、単にこのことだけなのだろうか。あるいは、単に、IM境界やメディア界の事象を指しているだけなのだろうか。仏陀は輪廻転生から脱することを説いたのである。輪廻転生は、メディア界に起源があると考えられる。ならば、仏陀は、脱メディア界を志向したと言えよう。つまり、イデア界を志向したのだと言えよう。このイデア界志向と空とはどう関係するのだろうか。ここが一番のポイントである。(一度この問題に触れたことがあるが、解明はされてはいない。)
 ここで、私の直観から叙述しよう。もう今から十数年前になるだろうか。私が考えた、色即是空、空即是色とは、欲望があるが、それは無である。しかし、無はまた、同時に欲望である。そして、この両極性には、私の直観では、間(ま)が生じるのである。欲望の極と無の極があり、欲望が無によって相対化されるのであり、また、逆に、無が欲望によって相対化されるのである。ドゥルーズ風に言えば、欲望「と」無の「と」が間である。これが、空である。しかし、これは、虚無ではない。虚空ではない。均衡、バランスの思想である。思うに、この間、空、バランスという中間領域において、何かが、第三のものが動き出すと思うのである。これは何か。これはある種の力であろう。それは、メディア界に基盤があるのだろうか。ドゥルーズ風に言えば、これは、正に差異であるが、それは、連続的なのか、不連続的なのか、それとも両義的なのか。これは、陰陽論とも関係するだろう。「気」の力とは、何なのか。ここでも、直観で述べよう。これは、ある種超越的な力である。上位・高次の力だと思う。ただそのようなものとして認識されにくいと思う。D.H.ロレンスは、「王冠」で、ライオンと一角獣との二項対立ないし対極性を説き、それらの「止揚」として、王冠というものを説いているのである。それは、ロレンスにとり、「聖霊」というものである。ライオンが「父」であり、一角獣が「子」であり、王冠が「聖霊」なのであり、王冠=「聖霊」が両者を止揚するのである。そして、これは、ロレンスにとり、コスモスや「暗い神」(ダーク・ゴッド)に繋がるのである。コスモスがイデア界とするならば、「聖霊」は、イデア界的なものである。そして、この考えを適用すれば、ここで問題にしていた第三のもの、上位・高次の力とは、やはり、イデア界的なものと言えるだろう。つまり、「間」、「空」、バランスという中間領域にはたらきだす力とは、イデア界的なものであるということである。しかしながら、問題は、「空」の力が、IM境界的ではないかということである。ここは微妙である。IM境界において、イデア界の力とメディア界の力が働く。しかし、両極性がメディア界の力とするならば、「空」の力はイデア界の力と見なくてはならない。これで、問題は解決された。「間(ま)」、「空(くう)」、バランスの第三の力とはイデア界の力(虚力)である。これは、不連続性の力であり、また、差異共存の力である。(ここで、ロレンスが、「星の均衡」という男女関係思想を述べていたことを想起していもいいだろう。)ということで、論証が迂回路を通ったが、「空」とは、単に、IM境界、メディア界領域に当てはまることだけではなくて、イデア界の力を指しているのである。だから、空の思想はイデア界の思想でもあることが証明、検証、確認された。すると、大乗仏教が出現するのは、論理的帰結と言えよう。かつて、切断があったのではと言ったが、そうではなくて、仏陀の解脱の思想から大乗仏教の思想が生まれるのである。進展的展開である。色即是空、空即是色とは、衆生救済の思想となるのである。これは、イエス教やムハンマド教と等価である。つまり、イデア界教、叡智教である。プラトン教である。究極は、イデア界が起源であり、この多数・無数の不連続的差異の共存力が作動するのである。これは、身心的力である。この力は、デュナミスによる力である。メディア界の力をエネルゲイアと呼んだのであるので、これをエネルゲイアとは呼べないのではないだろうか。デュナミスとエネルゲイアとの関係を明確にしないといけない。
 イデア界=デュナミスからメディア界=エネルゲイアは生起する。人間以外の現象体において、この図式はあてはまる。しかし、人間において、イデア界の力が過剰である。というか、イデア界自体が作用するのであるが、それをすべてメディア界化できないのである。余剰のイデア界・デュナミスが人間において作動しているのである。このエクストラ・デュナミスの力が、人間の無意識に作動する力である。では、これをエネルゲイアと呼んでいいのか。メディア界の力=エネルゲイアと区別して、イデアエネルゲイアとは言えるかもしれない。とまれ、このエクストラ・デュナミス、イデアエネルゲイアが、人間を人間にしていると言えよう。これは、人間を善人にも、悪人にもする過剰なものである。ニーチェディオニュソスとはこのことでだろうし、アポロ的なものとは、イデア界的なヴィジョンであろう。そう、折口信夫の『死者の書』の郎女のヴィジョンはそのようなものだろう。そう、イデアエネルゲイアとは、芸術を創造する力でもあるのである。(今日、芸術はこの力を喪失しているだろう。)
 また、このイデアエネルゲイアは反動化して、一神教プロテスタンティズムを生んだと考えられる。資本主義は、経済的帰結である。新自由主義はこのおそらく最終的帰結である。これは、差異を否定して、エゴイズムに徹する。しかし、地球資本主義(グローバリゼーション)になるとき、閉鎖系経済となる。もう否定する対象は限られたものでしかない(アフガン/イラク「戦争」)。ネオコン的一元主義は富を生み出さなくなる。イデアエネルゲイアの反動・一神教・グローバリゼーションは、壁にぶつかるのだ。これはベルリンの壁以上であろう。他者・差異の肯定である。即ち、ここで、反動が否定されるのである。差異、特異性の差異が肯定されるのである。これは、当然、メディア界ではなくて、イデア界の肯定である。メディア界を否定する一神教ではあるが、他者・差異・特異性の肯定とは、当然、イデア界の肯定である。(メディア界は実はマイナーな問題に過ぎない。)ここで、ポスト一神教、ポスト資本主義、ポスト・グローバリゼーションの方向が拓かれるのである。新しい多神教、新しい経済、新しい地球主義である。これは、イデアエネルゲイアの創造、創発、能動に関わるのである。イデア界的創造・生産が為される。不連続的差異創造経済の新地球世界となるだろう。差異共存共創経済。それは、真の創造である。イデアエネルゲイアを主導的になり、現象界経済を新秩序化、新コスモス化するのである。そう、イデア・コスモス・エネルゲイア創造エコノミーであり、差異共存共創経済が、脱資本主義として、創発されるだろう。現象界がイデア界化されるだろう。イデア界化された経済、差異共存共創経済とは、哲学・芸術・科学的経済である。それは、作品としての経済だろう。イデア・エコノミー。それは、新しい天地創造であろう。イデア・ニュークリエーション。







イデア界の差異共存体は、確かに「神」であろう:そして、様々な仮面をもつ


アメリカの神話学者ジョセフ(ジョウゼフが正しい)・キャンベルの主著に『神の仮面』(全4巻で、1巻のみ、翻訳されている)という博覧強記の傑作がある。私は、この神話学で、世界の見方が変わった。レヴィ=ストロースよりもはるかに決定的だった。父権神話以前の女神神話を決定的に私に教えてくれた。 
 さて、イデア界の不連続的差異共存体は、普遍性であり、それが、メディア界の多様体となり、そして、現象界の個体となるのである。スピノザ哲学の実体/属性/様態であるが、それは、今考えると、かなり、硬直しているのではないだろうか。
 とまれ、イデア界の不連続的差異共存体こそが、プラトンの善のイデアである。イエスとは、このイデア界の使者であろうし、また、ブッダもそうだろう。また、イスラーム教も、イデア界を指しているだろう。アッラーとは、イデア界の不連続的差異共存体のことであろう。万教帰一。
 そう、ジョセフ・キャンベルが言う「神」とは正に、イデア界のことだろう。






ニーチェフッサールイデア界の二つのあり方:絶対的不連続性と差異共存志向性


ニーチェ哲学の強さはその絶対的不連続主義にあるだろう。この点では、頂点にあると言えるのではないだろうか。同情を禁止した強さは、すばらしい。同情とは連続主義の悪しきものである。
 他方、フッサールは、差異の志向性を解明したと言えるだろう。これは、超越論的主観性であるが、実際は、イデア界の差異の志向性と見ていいだろう。つまり、フッサールの主観性は、「存在」論的である。(ドゥルーズはそれを見のがしている。)
 では、ニーチェフッサール、両者、イデア界を解明していると考えられるが、それは、どういう理論的関係にあるだろうか。つまり、ニーチェが捉えた不連続的差異とフッサールが把捉した不連続的差異とは、どういう風に関連するのかということである。思うに、ニーチェは、差異の境界の絶対性を主張し、フッサールは、差異の境界の志向性を説いたのではないか。つまり、両者で、不連続的差異境界の二重性を説いていると言えるだろう。差異境界の絶対性、そして、差異境界の他者志向性。前者は差異境界の垂直性、後者は差異境界の水平性と呼べるだろう。つまり、差異境界の垂直/水平性という直交性質を両者併せて説いていると言えよう。 
 先に、私は、差異の力学として、そのような直交性を説こうとしたが、うまくいかなかった。差異の力学というよりは、差異境界の力学と捉えると、明快になるのだろう。そして、この境界二重性が、IM境界においても作用するだろう。即ち、絶対的独立性と他者志向性と二重性が作用するだろう。ここで、先にも触れたが、D.H.ロレンスの奇書というべき『無意識の幻想曲』を想起するが、そこで、無意識の4元性が説かれているが、それは、また、身心論(cf. スピノザの心身平行論)でもあるが、最初のコスモス的一体性と独立性は、IM境界の出来事を説いているのように思えるのであり、また、次の現象的二重性は、メディア界と現象界の境界・MP境界の事象を述べているように思えるのである。IM境界と最初の無意識の二重性を重ねるのは問題ないだろう。では、次の二重性とMP境界はどう関係するのか。思うに、連続化しても境界は、内在的に、二重性をもっていると言えるだろう。だから、MP境界においても、内在性が機能して、二重性が生じるのではないだろうか。つまり、連続性における垂直性と水平性があるということではないか。そう考えれば、この問題は説明がつくだろう。

以下は、ボツ
 【では、この境界の垂直/水平力学を、経済に適用するとどういうことになるだろうか。社会主義近代主義社会民主主義は、連続性における垂直・水平主義ではなかったか。それに対して、新自由主義は、不連続性における垂直・水平主義ではないか。つまり、 IM境界におけるそれではないだろうか。小さな政府とは連続性の極小化であり、市場原理主義とは、不連続性の垂直・水平主義の極大化ではないか。ただ、問題は、資本、大資本、金融資本というそれ自体連続物のことであろう。不連続性/連続性ないし差異性/同一性という資本の論理から見ると、不連続的差異の創造性が絶対に欠かせないのであるのに対して、出口の連続・同一性の支配が極大化していると言えるだろう。ここに新自由主義の問題点があるのではないだろうか。つまり、富が差異にフィードバックされないのである。差異⇒同一性で止まるのである。これを、差異⇒同一性⇒差異という循環回路にしないといけないだろう。そう、カオスが帰結してしまうだろう。差異というコスモスへと変換させないといけない。資本の質的な不連続的差異化が必要だろう。資本の特異化とも言えよう。マルクスは、プロレタリアートにこのようなものの始点を見たのであろう。そして、ネグりは、マルチチュードにこのようなものを見ているのだろう。やはり、差異の創造性に解決の糸口があるのではないか。資本は、差異的創造へと投資しなければ、衰退するのである。単に、金融商品で設ければいいのではないのである。では、誰が、差異的創造に投資するのか。これが、「マルチチュード」ではないか。いわば、マルチキャピタルではないか。とまれ、差異的共存志向がなくてはならない。差異共存経済である。差異共存共創経済である。これは、どこから生まれるのか。実は、すでに、企業内にあるのではないか。社会にあるのではないか。これをより現実化しないといけないのだろう。差異共存共創原理の経済的実現。つまり、差異共存共創「生産物」があり、それが交換されることが必要である。差異共存共創生産とは? それは、生活者共同組合のようなものではないか。生活者共存共創体。差異市民共存共創体。やはり、共存体の金融システムが必要のように思える。地域通貨のような補完通貨では無力である。そう、思うに、消費者が、差異消費することではないだろうか。あるいは、差異的投資をすることではないか。金融はいじれないだろう。差異創造への消費や投資。それは、教育や学術、福祉医療、農業等への消費・投資ではないか。差異共存共創のための消費・投資。金融資本は、企業へと投資するだろうが、差異共存共創への投資はしないだろう。だから、不連続的差異(複数)が、共存共創のシステムを構築すればいいのではないか。不連続的差異共存共創の自然社会経済システムである。共存共創「銀行」はできないのか。
 どうもまとまらなくなってしまったが、問題は、新自由主義のポジティブな市場原理性と差異共存主義をどのように結合するかだろう。差異自由主義経済とは言えるのだが、具体的には何か。差異共存体という核がなくてはならない。差異市民が、差異共存的差異価値「商品」を自由市場で買えばいいのではないか。
 後で、もっといいアイデアが浮かんだら書こう。これがおそらくいちばんの難問だろう。】