美とは何か:メディア界感覚・意識とは何か

私の直感では、諸芸術において、「美」なるものをメディア界で感覚・意識しています。バッハ音楽のすぐれた演奏を聴き、私は、メディア界の感覚・意識で「美」を感じます。確かに、聴覚を通して音楽を聴き、メディア界感覚・意識で音楽を感じます。では、聴覚とは何でしょうか。音楽、音とは何でしょうか。聴覚とは、現象界における感覚なのでしょうか。ここでは、私の直観ないし直感で言います。ある意味で、私の聴覚は分裂しています。耳で聴くと同時に、身体ないし身心で聴いています。音楽の場合とします。あるいは、身体全体で聴いていると言ってもいいのかもしれません。こういうことが言えると思います。現象界とは、抽象形式化された感覚知覚界であります。だから、この現象界の感覚では、音は、抽象形式化されていて、音楽美は失われています。現象界感覚では、音楽美は感知できません。ですから、音楽美を感じているのは、メディア界感覚意識という領域のはずです。これを私は身体感覚ないし身心感覚と考えます。結局、私見、直感では、差異の連結領域であるメディア界を私は感覚・知覚・意識(sense)しています。では、この感覚は、差異の連結自体なのでしょうか。つまり、差異を直に感覚しているのでしょうか。
 ここでは、精緻に考えなくてはなりません。差異の連結として、メディア界はあります。もう少し丁寧に言うと、差異の共立性、連結性、そして、連続化への指向をもった領域です。そして、差異と差異との間にはなんらかの力、強度、エネルギー(エネルゲイア)があります。そして、この力と差異とは、メディア界においては、不可分のものとなっていると考えられます。このメディア界の差異、メディア差異が、いわば、メディア界の実体となります。ですから、メディア界感覚・知覚・意識とは、差異自体を感じているのではなく、メディア化された差異、メディア差異のはずです。そして、たとえば、これが音楽美の実体です。芸術感覚の実体とも言えましょう。このメディア差異を、具体化することが芸術の創造でありましょう。では、この具体化とは現象界化でしょうか。作曲ならば、音符化し、さらに、演奏して、感覚されるものにしますし、絵画ならば、デッサンして、そして、彩色して、視覚で感覚できるものにします。この場合の感覚とメディア界の感覚とは少し異なるでしょう。メディア界の感覚を内的感覚と言うと、この具体的感覚は外的感覚と言えるでしょう。しかし、内的感覚が外的感覚に表現されているわけです。即ち、内的感覚を内包したものとして、外的感覚があることになります。ですから、内的且つ外的感覚、即自的且つ対自的感覚ということになります。
 それでは、この内的且つ外的感覚である芸術作品、アート作品とは、現象界のものと言えるのでしょうか。確かに、現象界に存在はしています。しかし、芸術作品は、メディア界を表現して現象界に存在させていると言えるでしょう。しかし、芸術作品、アート作品は、現象界的なものではありません。ここは、少し不思議な事象です。つまり、感覚とは何かということになります。抽象形式である感覚と現象界が一致します。結局、抽象形式感覚である現象界の現象的材料を用いて、メディア界感覚・意識を表現したのが芸術作品です。作品とは、アートワークとは、ですから、メディア界的現象界ないしメディア界的現象体と言えるでしょう。そして、それを観照、観賞する者、芸術作品の享受者は、そこから、自身、自己の内的なメディア界を喚起されて、それで、芸術美を感得するのです。
 結局、感覚とは何かということになるでしょう。結局、感覚(sense)とは、メディア界と現象界の境界にあるということになるでしょう。すると、不連続的差異論からは、メディア界の現象面にいちおう当たります。しかし、メディア界と現象界の境界と言ったとき、単に、メディア界の現象面だけを指しているのではないでしょう。なぜならば、メディア界とは、イデア面をもっているからです。すなわち、感覚とは、イデア界/メディア界/現象界という世界構成の、/メディア界/を表出しているものでしょう。即ち、イデア面・メディア界・現象面が感覚であると言えるでしょう。そして、芸術がこの感覚世界を表現すると言えるでしょう。とりわけ、芸術ポスト・モダンがこれを表現しているのでしょう。セザンヌから始まる芸術ポスト・モダンです。しかし、この芸術ポスト・モダンは、その流れが、喪失したようです。感覚が現象界化したからです。しかし、これはいわば永遠ですから、いつかは復活します。芸術ポスト・モダンとは、世界の永遠の感覚を表現していると言えるのですから。