自我欲望とは何か:一神教、自我、超多神教

メディア界を否定するようにして、連続・同一性の自我が形成されます。精神分析ラカン)は、想像的ファルスを象徴的ファルスへと転換して、自我である象徴界を形成すると考えています。私見では、これは、父権的な構成です。連続・同一性と言語が一体化して、自我、父権的個体が形成されるのだと思います。このとき、差異、メディア界が排出されます。差異よりも、連続・同一性が肯定されます。二項対立です。差異はいわば連続性・同一性によって威圧され、排出されるのです。自我の暴力があるのです。この差異から連続・同一性への転換は、人類進化にとって、一つの中心的契機です。このことに関して、一神教の発生と結びつけて述べました。苛酷な自然という条件を言いました。砂漠という苛酷な自然条件において、差異から連続・同一性への転換がなされると言いました。すなわち、超越神を仮想した自我の肯定です。メディア界を否定した超越神による自我の称揚です。これは、思うに、イデア界と自我とを結びつけたのです。即ち、「父」と自我との連結です。思うに、これは、メディア界的な多神教の思いもつかぬ事態と言えましょう。結局、自我形成とは、単純な連続・同一性によるというよりも、メディア界を否定する動機によって、メディア界を超越した領域と連続・同一性とを結びつけたと言うべきでしょう。そして、自我欲望とは、メディア界の強度を超えたイデア界的虚力と結びついています。これは、ある意味で、観念的力です。抽象的力です。これは、メディア界を形成する力が正の力ならば、これは、それを解体する負の力です。これは、イデア界の力です。このイデア界の力が、連続・同一性の力(超越論的形式の力)と結びついているのです。ですから、自我とは超越的自我であり、強固です。正に、サバイバルの二項対立です。これが自我・一神教の本質でしょう。グローバリゼーションは正にこれです。結局、自我欲望とは、イデア界的連続・同一性=自我の欲望であり、超越的次元をもつので、無際限、無限の欲望となります。これが資本主義と結びつくと、自然その他をむさぼり尽くして破壊の限りを尽くすでしょう。永遠の破壊です。これが、ユダヤキリスト教一神教・自我の意味です。(イスラム教は、一神教でも、決定的に異なります。イスラム教は自我肯定はありません。メディア界を肯定して、イデア界である「アッラー」を賛えているのです。後で、検討します。)超越的な無限の欲望、それが自我の欲望です。これは、完全に地球を破壊します。(アメリカ人は、自分たちの資源の無駄遣いを、感じていないと思います。)
 ということで、自我の欲望を一神教に返って考察しました。では、それに対する処方箋は何でしょうか。ポスト構造主義が、この一神教的自我の解体を目指していました。しかし、それは、後退しました。一神教的自我を脱構築するには、メディア界を再肯定が必要です。否定・排出されているメディア界を復活させることです。そうすると、差異の共立、差異の多元性が生起して、ポスト自我、個、特異性となります。そして、さらに、複数の不連続的差異をイデア界に確認することで、決定的に、一神教は解体します。いわば、超越的多神教となります。ヤハウェが、新たな神々となります。超多神教です。では、メディア界の多神教とこの超多神教は具体的にどう違うのでしょうか。メディア界の多神教とは、ギリシア神話古事記等に表現されたものです。そこでは、連続性があります。しかし、超多神教イデア界の多神教とは、不連続的です。思うに、新しい神々です。これまで、存在しなかった、ないし知られなかった神々、超神々です。イギリスの作家D.H.ロレンスは未知の神、暗い神と言いました。それは、イデア界の見知らぬ神々を暗示していたのではないでしょうか。それは、少なくとも、不連続的差異という神々と言うことができます。