言語とメディア界の関係

この問題は実に検討のし甲斐がある。さて、私は、現象界は、言語界でもあると述べた。言語分節によって現象界を形成しているのである。すなわち、メディア界を、連続・同一性である言語によって分節化・固定化して現象界を形成しているのである。つまり、メディア界のゆらぎを、言語によって連続化して、消去しているのである。結局、言語・現象界に感覚・意識は、「染まる」と言える。つまり、メディア界のゆらぎ、ないし、差異を連続・同一性の言語によって排出・隠蔽しているのである。これを図式化してみよう。

d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn (メディア界)

⇔を排出・隠蔽するのである。

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn(現象界)

だから、たとえば、d1ーd2のーの「無意識」に⇔が排出・隠蔽されていることになる。

d1ー(⇔)d2

この(⇔)が、「無意識」である。だから、たとえば、山を対象にすると、山の⇔が消去されて、d1−d2の山となるのである。これは、物質としての山である。ゆらぎのない山である。詩人や仏教者が見る山ではない。古典科学の山である。超越論的形式の山である。「物自体」すなわち、ゆらぎの山はない。今日、山やd1ーd2に還元されてしまっている。自然全体もそうである。d1⇔d2の山、自然をとりもどさないといけない。
 結局、山という言語知覚が、⇔を排出・隠蔽している。すなわち、d1ーd2が山という言語記号であり、d1⇔d2という山のメディア界を排出・隠蔽するのである。このとき、連続・同一化欲望ないし反動が作動している。そう、デリダの術語を用いると、d1⇔d2とd1ーd2の間には、差延があるのである。簡単に言えば、間(ま)があるのである。ズレがあるのである。メディアと現象の間、ズレ、差延である。あるいは、魂・心と知とのそれである。そして、これが生起するのは、真正である。この二重性は真正である。しかるに、近代とは、これが、連続・同一性へと一元化するのである。メディアが排出・隠蔽されるのである。このメカニズムを検討しよう。
 これは、映画を考えたらいいだろう。不連続なコマを早く動かして、連続化の仮象を生むのである。ということは、残像を利用して、連続化という仮象を形成するのであえる。d1の残像1とd2の残像2との連続して、d1−d2になると言えよう。すると、連続・同一化とは、メディア界の差異の残像を利用していると言えるだろう。つまり、言語を高速にすれば、いいと言えるだろう。山のメディア界はd1⇔d2であり、山という言語・現象はd1ーd2である。だから、d1とd2の間を狭くすればいいのである。すると、d1とd2の残像が連続化するのである。すなわち、山という言語を高速にすることである。そうすれば、d1−d2となり、連続体としての、ゆらぎのない山を現象化するのである。そして、このd1−d2が物質としての山である。メディア界は排出・隠蔽されているのである。
 結局、言語の高速化によって、ゆらぎが消去されて、現象界化されると言える。これは、擬制、シュミラークル、偽装である。また、自己欺瞞でもある。言語によって自惚れるのであり、メディア界(魂、心、倫理)を喪失するのである。しかし、言語と言っても、メディア界を志向する言語を扱うならば、問題は少ないだろう。しかし、メディア界を志向する言語でなくて、現象界を志向する言語中心となると、メディア界の喪失は決定的になるだろう。文学言語、哲学言語、宗教言語等が希薄になり、現象言語が中心になると、メディア界が消去されて、連続・同一性の欲望・暴力の世界となる。視覚化は、この点で、現象中心化の危険性をもつと言えるだろう。視覚においても、ゆらぎ、メディア界をとりもどさないといけない。視覚の低速化? とまれ、後で、もう一度、この問題を考えてみる。