日本人を進化させる:日本人の「精神」を哲学する

日本は、近代以前は、単独的な、特異な個性をもった人間が多く居た。しかし、今日、ひどくせせこましい、窮屈な、疑似共同体意識(ナショナリズム)の社会・世間となっている。どうも、孤立を恐れて、勇敢な態度がとれないようだ。思うに、韓国人や中国人の方が個がある。これはどういうことか。人目を気にする日本人。いったい、この精神の構造は何か。これを探りたい。   不連続的差異論から直観で言えば、日本人は連続化の度合が強いのである。メディア界から現象界へと転化するとき、差異を放出ないし廃棄して、連続・同一性的自我へと固着するのである。確かに共感性はあるものの自我と同一化しているために、反感を強くもつものになっているのである。いわば、ウェットである。つまり、共感/反感的自我である。これが、日本の狭苦しい世間・疑似共同体を造っているのである。共感性があるから、他者と一致しようとする。これが模倣欲である。ブランド志向である。同時に、他者に反感を覚えて、嫉み、憎んだりする。ルサンチマンである。そう、ルネ・ジラールの説く模倣欲望・暴力である。しかし、これは、簡単に、連続・同一性の欲望と呼べる。そう、これは、あらゆる社会で多かれ少なかれ見られることであるが、日本では、この度合が強いと言えよう。アメリカ人は、思うに、エゴイスティックであるが、しかし、日本人のように疑似共同体である世間を気にすることは少ないだろう、というか全くないだろう。 
 結局、日本人の場合、メディア界のもつ連続化にまったく陥っているのである。メディア界には、不連続的差異があり、特異性の生起するところである。しかし、この特異性が日本人の場合、消失しているのである。これは何であろうか。はっきり言って、マインドコントロールである。私見では、70年代半ばからの、量的経済価値中心主義による、企業中心主義によるマインドコントロールによる、個の特異性を廃棄・排出して、連続・同一性の自我を模倣することが、日本において、中心・主流になったのである。簡単に言えば、差異を廃棄したのである。これは、自我暴力を生む。自我的世間・疑似共同体を生む。これは、模倣欲望・暴力「社会」である。明らかに、70年代半ば、日本は、差異という生命・魂を廃棄したのである。そして、バブルへと邁進したのであった。そこには、アメリカの黒い意志・強制があったと言えよう。つまり、日本は、経済界とアメリカによって、個を廃棄するマインドコントロール社会になったのであった。日本の死である。差異、特異性、個が否定されたのである。経済界、国家、アメリカによって、日本人はマインドコントロール状態となったのである。そう、ここから脱しないといけない。メディア界を取り戻さないといけない。
 思うに、小泉/竹中路線とは、このマインドコントロールの産物でもある。換言すれば、アメリカ・日本の政治・経済・文化連続主義の産物でもある。しかし、今、この呪縛が突破されようとしている。そう、戦後米日連続的近代主義が今や終焉しよとしているのだろう。世界は今や、個の時代である。差異の時代である。メディア界が復活する時代である。ポスト近代主義である。ポスト近代西欧米主義である。そのための「ハルマゲドン」が今、闘われていると言えよう。