メディア界から現象界へ:捩れとらせん

イデア界からメディア界への1/4回転、90度回転を、x軸とy軸の直交座標における二つの垂直な力の関係としよう。そして、これにより、z軸に捩れると考えよう。このz軸の座標が、現象界となるだろう。これはこれでいい。問題は、y軸、即ち、メディア軸において、差異が連結されて、差異の幾何学が生じると言えるだろう。3差異は正三角形、4差異は正方形、5差異は正五角形等々である。そして、これが、いわば原型ないし構造となって、現象界のパターンを形成すると言えよう。そう、構造主義とは、このメディア界を捉えているのである。しかしながら、構造主義の問題は、メディア界が単に差異の連結だけでなく、それが、本来、不連続的差異の共立であることを看過している。メディア界は二重、二層なのである。とまれ、メディア界を原型、構造から見ると、現象界の形態、形状、パターンを発生させているのがよくわかる。カントの超越論的形式は、構造主義とはぴったり重ならないにしても、抽象形式、形式構造という点ではほぼ重なるだろう。 
 では、この構造と捩れの関係はどうだろうか。ここで、朝顔のつぼみと花弁を見るといいと思う。5差異の花弁があるが、それらが、捩れて、つぼみになっていると考えることができるだろう。つまり、差異が捩れるのである。そして、次に、差異が開くのである。差異と捩れは一種相補性があると言えよう。とまれ、差異が基本にあるとは言え、捩れが最初に生起して、次に、差異が展開(「開花」)すると言えよう。だから、宇宙を花に、とりわけ、花弁の多いの花に喩えるのは適切であると言えよう。薔薇の花弁。
 ということで、結局、諸差異がイデア界にあり、それらが、メディア界で、連結・連合・結合して、現象界の原型を構成する(構造)。それが、現象界へと展開すると言えよう。この点で、構造主義は全く正鵠を射ていると言える。しかし、構造主義の問題は、個、特異性が扱えないところにある。実は、メディア界は、単に差異の連結構造(原型)があるだけでなく、差異の共立性も保持しているのである。この差異の共立性が、特異性、個の根拠となるのである。確かに、差異の連結構造も根拠になるが、それは、特異性、個のそれではなくて、自我のそれである。つまり、差異の連結構造とは、自我の根拠となるのであり、それは、連続・同一性の原基であり、全体主義ナショナリズムファシズム等)の基盤となるのである。中沢新一が、田辺元の種の論理を構造主義と捉えたが、それは、正解であるし、同時に、全体主義ナショナリズムの原理と共通であると言わなくては、きわめて不十分である。構造主義は、メディア界を半面において把捉しているだけである。そして、デリダドゥルーズは他の半面を、把捉しようとしたのである。いわゆる、ポスト構造主義である。どちらが、メディア界を捉えているかと言えば、それはデリダの方であろう。デリダ脱構築主義は、現代の仏教哲学と言うべきものであり、メディア界の両極性、両義性を捉えている。ドゥルーズの場合は、ある意味で、不連続的差異の特異性を捉えていながらも、同時に、連続的差異の構造主義に留まっているのであえる。ドゥルーズは、混乱、混濁しているのである。しかし、差異の共立という概念は、デリダではなくて、ドゥルーズが明確に捉えていたものである。まとめると、デリダはメディア界の仏教的様式を把捉していたのに対して、ドゥルーズは、メディア界の両義性において分裂し、また混乱していたと言える。前者は、メディア界のゆらぎを明確に把捉したのに対して、後者は、前者が捉ええなかった差異の共立性を把捉しながらも、それを差異の連結構造と混同していたのである。そう、デリダは、差異の共立というイデア界性を捉えることはできなかったが、しかし、メディア界のゆらぎという事象を明確に捉えていたのである。そして、ドゥルーズデリダよりも一歩進みながらも、メディア界の両義性に囚われて、イデア界性、不連続的差異性、特異性を明確に把捉することはできなかったのである。一方は、ゆらぎに遊び、他方は、ゆらぎの領域のメディア界を理論的に揺れ動いたのである。すなわち、特異性(ニーチェ)となったり、連続性(ベルクソンハイデガー)となったりしたのである。

p.s. 先に、サルトル実存主義の問題点として、個の全体性への指向をあげたが、本件の視点から見ると、サルトル実存主義とは、実は、構造主義的であるとわかるのである。これは、哲学史の皮肉である。フッサール現象学は、即自性、内在性を維持したことにより、安易な連帯性を拒否している。そして、サルトル現象学実存主義は、外在的指向として対自的他者を指向したのであるが、それが、全体性を帯びるのである。つまり、フッサールはある意味で、特異性を維持したのであるが、サルトルは、勇み足で、特異性を破壊して、自我・構造的な連帯である全体性へと進んだのである。これは、サルトル哲学の破壊・破砕であったと思う。サルトル哲学には、大変な分裂がある。一方では、現象学のもつ脱自我の指向をもっている(『嘔吐』)。他方、投企、アンガージュマン(参加、参与)として、差異を排して、マルクス主義的全体性(構造性)へと連続化する。実存主義とは、本来、個、特異性の哲学のはずである。サルトルの場合は、思うに、メディア界に即していたが、やはり、メディア界の両極性、両義性に足をすくわれたと思う。実存主義は、メディア界の個、特異性の方向であるが、メディア界は構造主義性をももつのであり、この構造主義性が、全体性、マルクス主義共産主義に結合したと思われるのである。メディア界のもつ両義性が、サルトルの場合、完全に分裂したのである。ドゥルーズが、サルトルを肯定しているが、思うに、ドゥルーズの差異哲学とサルトル現象学実存主義とは似ているのだ。両者、メディア界の両義性によって混乱しているのだから。つまり、両者、メディア界の哲学者であるということである。ドゥルーズは、アカデミズムの人として、サルトルのように、実践的ではなかった。だが、実践的であったら、サルトルの二の舞いとなったと思う。フランス哲学は、思うに、メディア界哲学である。ニーチェの特異性/単独性の哲学を展開したのは、私見では、イギリスの作家のD.H.ロレンスだったように思うのである。ロレンス自身にも連続性があったが、晩年、それから脱して、特異性、単独性、不連続的差異性に達していると考えられるのである。