個と生死:「霊」とは何か

私は、輪廻転生の存在を批判して、否定した。つまり、霊は存在しないということである。存在するのは、永遠の複数の差異であり、個は、死んだとき、連続性が解体して、差異へ還元されるということである。「わたし」という個の発生は、メディア界におけるあるまとまりをもった差異の連結によるのであるが、この差異の連結が、人間の個のエネルゲイアであり、この個のメディア・エネルゲイアが、霊というイリュージョンを形成すると言えるだろう。つまり、個の根源として、イデア界という不連続的差異界は置いておくとして、メディア界における差異の連結=エネルゲイアがあり、このエネルゲイアの連続化と脱連続化の交替する事態が生死ないし死生である。つまり、差異の連結による連続化が生命の発生、生命の現象を意味し、その連続体が脱連続化されるのが、死の現象である。
 ここで、少し、差異の連結=エネルゲイアによる生死・死生の運動のあり方を検討してみよう。以前、ODA ウォッチャーズ氏は、エネルギーの保存則によって、順列形成で使用されたプラス(正)・エネルギーに対して、マイナス(負)・エネルギーが形成されるという主旨のことを述べた。このマイナス・エネルギーとはどのような作用をするのだろうか。プラス・エネルギーが差異の連続化を意味するならば、それは、差異連続化の解体・脱連続化を意味するのではないだろうか。そうならば、生死の運動、連続化/脱連続化とは、メディア界における極性力の生成消滅と関係すると考えられる。極性力がプラス・エネルギーをもつときと、マイナス・エネルギーをもつときがあり、それが生死のダイナミクスである。しかし、問題は、このプラスとマイナスのエネルギーの問題である。私は、メディア界をd1±d2±d3・・・±dnと記述するが、このプラスマイナスと、生死の正負のエネルギーとは異なるのではないだろうか。メディア界のプラスマイナス・エネルギーとは、連続化のエネルギーであり、脱連続化のそれではない。だから、エネルギーを少なくとも二種類に分けないといけない。とりあえず、連続化/脱連続化のエネルギーをイデア界のエネルギーとして、虚数エネルギーとしよう。そして、メディア界のエネルギーを、実数エネルギーとしよう。つまり、メディア界の極性エネルギーとは、実数値をもつということである。整理すると、メディア界には、二種類の異質なエネルギーが作用しているのであり、一つは、連続/脱連続化の虚数エネルギーであり、一つは、極性的連続化の実数エネルギーである。前者はイデア界のエネルギーであり、後者は現象界のエネルギーであると言えるのではないだろうか。
 では、さらに詳しく検討しよう。イデア界のエネルギーとは、ガウス平面のエネルギーだろう。この虚数エネルギーは、またイデア・エネルギー、ガウス・エネルギー、差異・エネルギー等と呼べるだろう。そして、現象界のエネルギーは、現代物理学のエネルギー公式と説明されているだろう。
 ここで、疑問が浮かんだのである。やはり、メディア界の極性エネルギーは、現象界のエネルギーとは別物であろう。だから、以前にも述べたように、三種類のエネルギーを考えなくてならない。メディア界には、だから、イデア・エネルギー/メディア・エネルギー/現象・エネルギーの三者が交差していると言えるだろう。これは、アリストテレス哲学を用いれば、デュナミス・エネルギー/エネルゲイア・エネルギー/エンテレケイア・エネルギーとなる。
 さて、ここで、本論にもどると、ODA ウォッチャーズ氏の述べた、エネルギー保存則とは、やはり、イデア・エネルギーであり、連続/脱連続化の順列エネルギーとは、メディア・エネルギーと見るべきであろう。そして、生死の運動とは、このメディア・エネルギーに拠ると考えられるだろう。では、現象・エネルギー(物質・エネルギー)とは何であろうか。それは、当然、連続体のエネルギーである。そして、個は、差異の連結であるメディア・エネルギーから発生し、また、そこへ帰還すると言えるだろう。個とは、メディア・エネルギーの様相であると言えよう。そして、「霊」とは、メディア・エネルギーの様相を指しているだろう。だから、「霊」というような個体的なものは、本来存していないのである。ただ、メディア界の生成変化・生成消滅する様相があるだけであり、死んだ時は、メディア的様相へと還元されると言えよう。これは、いわば、メディア的差異である。そして、このメディア的差異ないしメディア的様相は、確かに永遠的だろう。メディア的差異様相の永劫回帰はあると言えるだろう。しかし、それは、個体的なものではありえないのである。ただ、メディア界という世界が主体であり、その諸様相が生成変化・生成消滅すると言えるのである。メディア界をバラの花弁に喩えれば、その花弁の一片が一様相であり、ここから、現象の個体が発生する。しかし、この一片を個体として固定してはならない。そうすると、カルマの思想を生じてしまう。そうではなくて、メディア界のバラの花弁の諸様相と、現象界の個体とは、連続してはいないのである。つまり、メディア界は多様体であり、それは、位相体であり、その様相は限定されないということである。位相体の「ここ」は「あそこ」であるのである。つまり、メディア界は無限定の位相体・多様体であるということであり、現象界の個体的被限定性をもってはいないということである。つまり、喩えると、メディア界において、あるシャッフルがあり、その結果、現象界の個体が形成されるということであり、一対一対応していないということである。だから、現象界の「わたし」とは、確かに幻影である。それは、メディア界の様相が真相であり、その真意は、メディア界的普遍性ということである。「わたし」は、正に仮の存在(仮象・バーチャルな存在)であり、他者と基本的には一致するのである。「わたし」は、メディア界の仮象・空蝉に過ぎないのである。偉大なメディア界の一つの化身に過ぎないのである。このように考えると、再び、仏教の「科学」性を確認することとなるのである。仏教は偉大である。しかし、現実は、途方もない仏教超堕落のあり様である。不連続的差異論は、仏教の復活をも意味する。
 とまれ、これで、本論を終えたとしよう。