初めに、メディアありき:感覚senseとポスト・モダン的メディア感覚

senseセンスとは何だろうか。これは、感覚、意味、知覚、理性等、内包されているものが幅広い。私の直感では、senseセンスとは、不連続的差異論のメディア界の知覚のことである。これを少し考察してみよう。
 メディア界は、差異が共存している領域である。そして、連続化の「幻想」が生起する「閾」でもある。感覚とは、メディア界の「現象」であると言える。身体と精神との境界の現象である。ここで、少し考え方を整理しよう。つまり、身体、精神とは何かである。デカルトスピノザに即せば、延長と思惟とは何かである。不連続的差異論を徹底しよう。差異の共存するメディア界があり、このメディア界の発現が、身体・延長/精神・思惟となると言えよう。たとえば、視覚を考えよう。それは、光を介して、ある現象をある生命体が知覚する感覚である。(生命体でなくてもかまわないだろうが、ここでわかりやすくするために、生命体としよう。)光とは、差異の共存による「力」である。ここのところを、少し詳しく説明しよう。
 
     [メディア界]

d1±〜d2±〜d3±〜・・・±〜dn
(dは差異であり、±とは、極性力であり、〜とはゆらぎを意味する)

このメディア界において、差異と、差異との関係は、不可分である。たとえば、d1とd2とは、d1±〜d2のことであり、単独でd1やd2が存していることはない。とまれ、メディア界の「現象」つまり、メディア現象とは、粒子/波動である。(なお、/は、不可分態を意味する。中国の陰陽の対極性と考えてもいい。だから、∽という記号を用いて、粒子∽波動としてもいい。またさらに、d1∽d2∽d3∽・・・∽dnとしてもいい。)故に、光とは、メディア現象であり、差異共存現象である。そして、身体/精神、延長/思惟も、メディア現象であり、身体・延長とは、粒子ないし差異の側面であり、精神・思惟とは、波動ないし「力」(極性力)の側面である。
 このように考えて、感覚senseを見るとき、感覚とは、正にメディア界における差異1と差異2との反応関係であることがわかる。それは、粒子と粒子との関係であり、また波動と波動との関係である。つまり、メディア連結・交通・反応である。メディア連結として、感覚・知覚があると言えよう。すると、メディア連結である感覚とは、当然、身体・延長/精神・思惟の両側面を帯びると言えよう。また、たとえば、感情というものは、身体・延長の指向性であり、欲望もそうであろう。また、知性、概念・観念・言語、理性等は、精神・思惟の側面である。ならば、倫理とは、メディア連結によって生起する差異共存指向である。それは、身体・延長/精神・思惟の両側面をもつ「力」である。
 ということで、感覚senseとは、メディア界の根源・基礎的現象であることがわかる。だから、本当の理性とは、感覚senseに基づかなくてはならない。デカルトスピノザの理性とはそれである。しかし、近代的合理主義とは、この感覚senseを、言語的形式(構造、超越論的形式)によって、排出・隠蔽した一般形式的な合理主義であり、メディアという真理を歪曲しているものであり、曲解の一種である。つまり、メディア界といういわば真実在を、ねじ曲げているのであり、そのねじ曲げとは、当然暴力を意味するのであり、近代主義(近代合理主義)とは、必然的に、虚偽と暴力の世界をもたらすのであり、事実もたらしたのである。強く言えば、狂気の世界を生んだのである。近代の世界戦争とは、この必然的帰結である。そして、「文明」、「資本主義」も、この産物であり、近代主義のままでは、地球、世界、自然、人類等を破壊するのである。結局、ポスト近代主義、ポスト近代合理主義として、メディア界的感覚叡智主義が生起するのである。あるいは、メディア感覚叡智主義と呼んでもいいだろう。これは、万人を芸術家、宗教家、哲学者、革命家、科学者、技術者、詩人等にするだろう。万人が天才となるだろう。(大乗仏教の仏性とは、メディア感覚のことであろう。)
 そう、言おう。初めに、メディアありき。

p.s. ここで、やや蛇足的であるが、カント哲学に言及すると、上述からわかるように、超越論的形式とは、メディア界の連続・同一性化した形式であり、メディア界と現象界との固定した境界形式であると言えよう。そして、物自体とは、端的に、メディアである。カント哲学では、メディアは把捉不可能である。何故か。カントは、直観が根源であるとしながら、直観つまり感覚senseを、連続・同一性の形式(言語形式、構造)の枠にはめていて、いわば、直観・感覚(メディア)を排出・隠蔽しているからである。抑圧と言ってもいい。そう、カント哲学が、近代主義、近代合理主義の出発点である。それは、暴力・権力・イデオロギーの形式である。また、観念論/唯物論という二元論を生んだ。だから、ポスト近代主義、ポスト・モダニズムとは、ポスト・カント主義である。 
 ついでに言えば、神秘主義とは、カント主義の裏返しである。確かに、メディアに触れてはいるが、近代合理主義のネガである。それは、神秘主義と近代合理主義との二項対立という分裂のままである。ロマン主義は、神秘主義と一致する。とまれ、現代、メディアの多元生成的生産・創造の時代である。ホリエモンは、ITメディアの革命児である。
 さらについでに言えば、D.H.ロレンスの「コスモス」とは、正に、メディアである。メディア宇宙のことである。また、占いとは、このメディア宇宙のイメージ表象であると言えよう。それは、科学ではありえないが、しかし、イメージ的なファジーな認識と言えるだろう。