メディア界の解放と資本主義:メディア資本主義

おそらく、ポスト近代として、メディア界が解放されて、この多種多様性、生成変化性と資本主義が連結するのだろう。

p.s. ガタリドゥルーズの『アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症』は、このメディア資本主義の概念の手前まで行ったが、メディア界を彼らは明晰に捉えていなかった。彼らは、「精神分裂症」の反理性・非合理性と資本主義を結びつけようとしたのである。しかし、それは、実際的、現実的ではない。メディア界を明確に認識し、解放することと資本主義が連結するのである。たとえば、ライブドア無線LANの試みは、メディア資本主義の発動である。

p.p.s. 『アンチ・オイディプス』は、1972年の著書である。今や古典である。だから、積極的に把握すべきだろう。流行した概念である「欲望する諸機械」、「器官なき身体」は、今や、ITによって実現されている。インターネットによる情報のネットワークがそうである。また、後の「リゾーム」(地下茎、根茎)という概念もそうである。差異・潜在力と資本とを、知恵や果敢さを介して、連結するメディア資本主義は、彼らによって暗示されていたとは言えるだろう。一言でいえば、彼らの哲学とは、メディア界のもつ創造的多様性をもって、固定した近代主義的資本主義を乗り越えることを目指していたのである。そして、不連続的差異論が、この路線を理論的に整合化したのである。

参照:
「メディオロジー的転回の条件
初出:『現代思想』vol.24-4、1996年4月号、pp.76-85

I. U. エーコの怪物退治:「中断されたコギト」
 メディア理解に言語科学がどのように関わることができるのかという問いをめぐって、記号論からディスクール論へといたる1960年代以降の言語理論の推移と、最近フランスで言われ出した「メディオロジー」が提起していると思われる問題との接点を探ってみたいと思います。私の見方では、二十世紀の知の<言語論的転回>以降の社会理論がどのようにメディアの問題を理論化しうるのかということがここでは中心的な問題の縦糸を作っているのだと思いますが、<言語 /記号>と<社会>と<技術>という三つの次元のうち第一項と第二項、第二項と第三項との間には理論分節が成り立ってきたのに第三項と第一項との間には十分な理論的な架橋がないではないかというのが「メディオロジー」の突きつけている重要な問いのひとつなのだろうと思います。
・・・」
東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
石田英敬 研究室
http://www.nulptyx.com/pub_medio_turn.html
http://www.h5.dion.ne.jp/~simpli/0305Deleuze.html
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/DeleuzeGilles004.htm
http://www.noos.ne.jp/06_deleuze_guattari/01_stage1/00_d=g_pickup.html