特異性と普遍性について:ポスト一神教としての新多神教

特異性と普遍性について

太陽は、メディア界ないしメディアの「力」の現象であると言えよう。そして、諸惑星、諸衛星、諸小惑星、星間物質等は、太陽系メディア界の差異の現象と言えよう。問題は、特異性である。特異性に普遍性がある。この普遍性とは、メディア界ないし太陽・光を指す。私が問題にしたいのは、この特異性=普遍性のあり方である。以前、それは絶対であると考えた。しかし、それは誤りではないだろうか。特異性は差異である。そして、他者も潜在・内在的には、差異であり、特異性である。つまり、特異性=普遍性の観点は、多数の普遍性を意味するのである。ここで、整理しないといけない。普遍性は、少なくとも、二種類ある。メディア界の普遍性であり、これは「唯一」である。すなわち、万人、万物に共通である。もう一つは、個の特異性の普遍性であり、それは、メディア界の普遍性に通じている。と言うことは、個の特異性において、メディア界の「唯一」の普遍性と現象界の複数・多数の普遍性が揺れ動いているということではないだろうか。これをとりあえず、メディア的普遍性(一)/現象的普遍性(多)としよう。思うに、西田哲学は、この個の特異性のゆらぐ普遍性を表現しようとしているようである。言い換えると、存在の一義性と現象の多数・多元性の連結状態の問題である。もう少し、この連結を精緻に見ないといけない。思うに、メディア的普遍性とは、潜在・可塑的差異の領域であり、いわば、潜在的エネルゲイアである。これは、決定されていない。しかし、それに対して、個においては、現象界の多数の特異性を認識して、その共立すべき方向性を探求する。あるいは、現象界を観察して、新たな創意工夫を行う。この現象界における個的考察・実践が、現実を創るのである。このメディア的普遍性と現象的普遍性の間には境界が存している。この一と多との差異的境界がきわめて重要である。不可欠である。そう、換言すると、一と多とのゆらぎの状態にあると言える。一と多の相補性があると言える。
 とまれ、まとめると、個の特異性とは、メディア界的一義的指向と現象界的多元的指向の相補性をもっているということである。換言すると、一神教的指向と多神教的指向である。しかし、一神教的指向は、自我の連続・同一性と結びつく。そう、簡単に言えば、メディア界の連続化が一神教となると言えよう。それは、自我とパラレルである。「我(ヤハウェ)在り在りて、在り余れるものなり」。多神教的指向とは、現象界の複数・多数性に即して、メディア界を想定するものだろう。つまり、メディア界的一義性を、多数化するものである。ということで、個の特異性において、一と多との矛盾やゆらぎが生起するのである。これを西田哲学は、絶対矛盾の自己同一性と言ったのである。これは、個の特異性=メディア界ということである。そして、ここで、不連続的差異論の絶対的創造性があるのであるが、差異を不連続化することで、メディア界の一義性が不連続化するのである。すると、一神教的指向は、ポスト一神教的指向となる。つまり、ここに新しい多神教の可能性があるのである。ポスト一神教としての新多神教である。これは、イデア界の宗教である。不連続的差異イデアの宗教・神学である。ヤハウェアッラーが、いわば多数のヤハウェアッラーになるのである。天皇が多数の天皇になるのである。それは、実は、マルチチュードを意味するだろう。多数の市民衆である。連衆である。イデア界が現象界である。個の特異性が、多数の普遍的特異性となるのである。これが、また、新しい民主主義である。差異平等主義である。
とまれ、ここで、折口やロレンスに即して考えると、『死んだ男』とは新多神教を意味するし、また『死者の書』も、阿弥陀仏を介して、多数の菩薩を表現しているので、新多神教を意味していると言えるだろう。折口は戦後確かに一神教的方向を見せたが、それは、メディア界的一義性である。しかし、『死者の書』においては、一神教的指向・メディア界的一義性は、郎女のヴィジョンの阿弥陀仏となっているのであり、また、それは、「数千地湧の菩薩」でもありえ、また、同時に、復活した滋賀津彦(大津御子)という個体、強いて言えば、差異・個である。つまり、折口において、一神教的指向は、多神教性や個・差異性を帯びているのである。だから、やはり、新多神教性を意味していると言えるだろう。