メディオソフィオロジーへ向けて:自我とは何か:連続欲望と差異メデ

人間において、メディア界の動性・ダイナミクスを表現しないと、メディア界の力が、盲目的に衝動化するのではないか。自我は、メディア界を基盤にしているが、メディア界への反動性をもって、メディア界を排出・隠蔽している。いわば、メディア界の封印ないし結界があるのだ。しかし、この封印・結界は、絶対ではない。メディア界が無意識になっているのである。つまり、メディア界と不連続ではないのである。連続的に排出・隠蔽しているのである。すなわち、自我とメディア界は連続の関係である。しかし、自我はメディア界に無意識なので、それを認識していない。この連続関係であるが、どのような「構造」であろうか。メディア界は、差異の不連続性と疑似連続性の境界的領域である。ゆらぎの領域である。つまり、常に不連続性への力がここには存している。不連続的な極性力と言ってもいいだろう。あるいは、単に極性力と言ってもいいだろう。自我とは、この極性力、ゆらぎを排出・隠蔽する連続的知覚・意識である。連続・同一性によって、メディア界を排出・隠蔽するのである。(ラカンは、ここに父の名、原シニフィアンを見ているだろう。これが、連続・同一性=言語・象徴のいわば芯と見ている。)ここで、メディア・ロゴスないしメディオロゴスを想起しないといけない。メディア・ロゴスの近似値ないし極限値として、言語が発生するだろう。つまり、メディア・ロゴス自体は、生成変化するものであり、その連続・同一性・微分として言語が発生するだろう。この連続的言語が、メディア界を排出・隠蔽するのである。これは、現象界の記号である。現象界という連続性の世界に対応・適応した記号である。そう、連続性とはいわば残像である。メディア界ないしメディア・ロゴスの残像として生起するのだ。これは、必然的に生起するものだ。文法でいえば、完了形である。⇒である。フッサールで言えば、志向性である。ドゥルーズで言えば、差異である。この残像が連続・同一性・微分としての現象界における言語を生起するのである。これは、目眩し(めくらまし)と言ってもいい。この連続・同一・微分という残像・現象に囚われた個体が自我である。これは、当然、メディア界に盲目である。必然的である。メディア界の差異を見ないで、残像の連続性を見ているからである。(ベルクソンはこの差異を連続化してしまっている。これをドゥルーズは引き継いでしまったのである。)そうならば、この残像の連続・同一・微分に固定することが自我の確立であり、その固定が、メディア界を排出・隠蔽するのである。この固定する力とは何かである。しかし、この固定力は、絶対ではない。自我とメディア界はつながっているからだ。この固定する力とは、欲望ではないのか。残像への固定とは、現象界への欲望である。飢えや餓え、渇望、飢渇があるだろう。欲望が固定力なのだろう。そして、固定を否定するメディア界の力、極性力を排出・隠蔽するのである。個体的欲望、いわばエゴイズム(語義的にはエゴティズムであるが、慣用に従う)である。それが、連続性を固定するのである。だから、メディア界自体のゆらぎは存しているのであるが、それを欲望によって排除しようとするのである。だから、メディア界の力に対しては、攻撃的になるのである。これが、自我の真相である。そう、自我の発生には、飢えがある。やはり、砂漠と関係するだろう。生存条件に厳しい砂漠である。激しい飢え・飢渇がある。これが、一神教を生むだろう。酷烈な飢え・飢渇・渇望があるのだ。個体維持への苛烈な渇望があるのだ。これが自我・エゴイズムを生むのだ。そして、これが、父権制である。戦争主義である。ホッブズ主義である。この自我欲望のあり方を断ち切らないといけない。これが、世界を狂気にしているのだ。仏教は深い。新神仏習合が必要だろう。とまれ、この自我欲望と資本主義が結びついているのだ(近代自我的資本主義)。ポスト自我欲望資本主義、ポスト近代資本主義、差異メディア資本主義とならなくてはならない。新仏教的資本主義と言えるかもしれない。あるいは、新神仏的資本主義である。大乗仏教の新生が必要である。あるいは、多神教の新生である。メディア界の新生が必要である。砂漠から森林へ。都市の森林化が必要である。ポスト自我として、森林的個の誕生である。あるいは、海洋的個、地球生命的個。それは、メディア界的個である。メディア界的資本主義へ。差異メディア資本主義へ。
 とまれ、なぜ、近代的資本主義において、「魂」や「仁義」がなくなるのか了解できる。自我欲望によって、メディア界が封鎖・閉塞されるからだ。とまれ、メディア界の知、英知が必要である。メディア界的科学が必要である。メディア界的知恵が必要である。メディア・ロゴス・ソフィアである。メディア・ロゴス・ソフィオロジーである。メディオロゴスソフィオロジーである。あるいは、メディオ・ソフィオロジーである。メディア叡智学である。簡略化して、メディソフィオロジーである。