産霊神(むすびのかみ)とイデア界:折口信夫の神道教論

安藤礼二氏によると折口信夫は、新神道の神として一神教的神を考えていたという。どうだろうか。私見では、折口は多神教一神教の間で、揺れ動いていたと思う。安藤氏は次のように書いている。
折口信夫は一貫して、一神教的な「神道」を目指していた。」『神々の闘争 折口信夫論』講談社 p.219
このように言い切ってしまうのは問題ではないだろうか。
折口の言葉を引用する。

「日本の神道で問題になるのは、神道を宗教化すると、如何なる神が現れてくるかということだ。神道一神教であるべきか、多神教であるべきかは、それは教祖がやるべきことであるけれど、我々はそれは予測する為に努力しなければならぬ。日本の神道多神教だと言われているがー・・・ー併し、その神のうちでも、昔の人は、偉い神を選んでいる。始めは人間が軽蔑しているような神ーすぴりつと・でもん・すだま・こだまなどというものだ。」『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』中公文庫
p.457〜458(なお、旧かな、旧漢字は現代表記に改めてある。)

「一体、日本の神々を性質から申しますと、多神教的なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです。
たとえば、沢山神々があっても、日本の神を考えるときには、天照大神を感じる、或は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を感じる、或は天御中主神を感じるというように、一個の神だけをば感じる考え癖というものがあります。・・・
日本人が数多の神を信じているように見えますけれども、やはり考え方の傾向は、一つ或は僅かの神々に帰して来るものだと思います。」同上 p.464〜465

「われわれは、日本の神々を、宗教上に復活させて、千年以来の神の軛から解放してさし上げなければならぬのです。」p.466

「・・・
日本の信仰の中には、他国の多少その要素があっても、日本的にまた世界的にも、特殊であり、すべてに宗教から自由なものと言ってもいいもののあることです。
それは、高皇産霊神神皇産霊神と言っているーーあの産霊神(むすびのかみ)の信仰です。字は、産むの「産」、たましいの「霊」で、魂を産むという風に宛てられていますがーー、神自身の信仰はそうではなく、生きる力を持った体中へ、魂をば植えつける、或は生命のない物質の中へ魂をば入れる、そうすると魂が発育するという風に、両方とも成長して参ります。其一番完全なものが、神、それから人間となった。それの不完全な、物質的な現れの、最著しく、弾力に示したものが、国土或は島だ、古代人は考えました。それが、日本の大昔の神話に現れている、大八州国の出来たという物語り、或は神々が生まれたという物語りです。
つまり神によって体の中に結合せられた魂が、だんだん発育して来る、それとともに、物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行う神が、つまり高皇産霊神神皇産霊神、即むすびの神であります。つまり、霊魂を与えるとともに、肉体と霊魂との間に、生命を生じさせる、そういう力を持った神の信仰を、神道教の出発点にもっております。・・・」同上 p.469〜470

「今にいたるまで、日本人は、信仰的に関係の深い神を、すぐさま祖先という風に考え勝ちであります。・・・ われわれはまず、産霊神を祖先ととして感ずることを止めなくてはなりません。宗教の神を、われわれ人間の祖先であるという風に考えるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むようになったのです。だからまず其最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われわれの人間系図の中から引き離して、系図以外に独立した宗教上の神として考えるのが、至当だと思います。そうして其神によって、われわれの心身がかく発育して来た。われわれの神話の上では、われわれの住んでいる此土地も、われわれの眺める山川草木も、総て此神が、それぞれ、適当な霊魂を付与したのが発育して来て、国土として生き、草木として生き、山川として成長して来た。人間・動物・地理・地物皆、生命を完了しているのだということをば、もう一度、新しい立場から信じ直さなければならいと思います。つまりわれわれの知識の復活が、まず必要なのです。
神道教は要するに、この高皇産霊神・神産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考えを進めて行かなければなりません。」同上 p.470〜471

ということで、折口の新神道論とは、神々を産む根源的ないわば超神、原神として、産霊神を考えていることになる。これは、一神教多神教とは言えるかもしれないが、不正確な言い方だろう。なぜなら、神の次元が、産霊神と神々とでは異なるからだ。安藤氏の断言は、事実を単純化していて、誤解を生みやすく、危険だと思う。
 さて、余裕がないので、十分検討できないが、私見では、折口の新神道論、神道教は、スピノザ哲学の神即自然に通じると思うし、また、不連続的差異論によって明快になるのではと思う。すなわち、産霊神とは、イデア界とメディア界の境界の軸でああるように思われるのである。プラトンのコーラに似ているように思えるのである。神々はメディア界の差異連結となるだろう。あるいは、産霊神は、イデア界を示唆しているとも言えよう。さらに私見を展開すると、思うに、産霊神的神道教とは、一神教を意味するというよりは、存在の一義性を意味すると思う。自然の根本原理を示唆していると思うのである。その意味で、一であると思う。しかし、これは、不連続的差異論から言うと、複数の差異であるイデア界である。また、産霊神は「魂を植えつけた神」であるが、「魂」とは、メディア界における差異連結の極性力のことではないだろうか。これが、エネルゲイア、「強度」、力となって、差異連結を現象化すると言えよう。だから、この意味では、産霊神とはイデア界を意味していよう。ならば、ポイントを明快にするために、便宜的にこう言ってもいいだろう。産霊神とは、イデア界であり、魂がメディア界であり、造化・天然自然・森羅万象・万有・万物とが当然、現象界であると。(もっとも、正確に言えば、産霊神は、イデア界とメディア界の境界であり、両義的である。)

p.s. 「魂」が極性力ならば、肉体とは、連結された差異自体だろう。図化すると、
d1±d2±d3±・・・±dn
という差異の連結がメディア界にある。極性力は±であり、これが、「魂」である。そして、これが連続化し、現象化されたもの、すなわち、d1・d2・d3・・・・dnが肉体だろう。そして、この肉体には、実は、メディア界の±という極性力=「魂」が内在・潜在していて、蠢いているのである。エネルゲイアである。だから、産霊神とは、メディア界というよりは、やはり、イデア界であろう。デュナミスとしての産霊神である。整理すると、

1.産霊神・イデア界・デュナミス/2.魂(霊魂)・メディア界・エネルゲイア/3.肉体・現象界・エンテレケイア

となる。

p.p.s. 『死者の書』の郎女のヴィジョンにおいて、俤の人は、阿弥陀如来でもありうるのである。光である。私は、光の信仰は、イデア界の光の信仰だと考えている。だから、やはり、産霊神とはイデア界の神と考えても、歪曲ではない。

3p.s. p.s.の説明だと、「魂」と肉体が二元論的になっているので、修正したい。
d1±d2±d3±・・・±dn
というメディア界がある。そして、現象界においては、d1・d2・d3・・・dnと連結連続して、肉体を形成しているのであるが、「魂」は、先に述べたように、±である極性力であり、これが、現象界において内在・潜在しているのである。だから、メディア界は単に「魂」だけでは不十分である。形相ではあるが。つまり、ゆらぐ身体性を含めないといけないのである。身体のゆらぎは、「気」と表現できるだろう。おそらく、日本語の「もの」が、メディア界を表現すると思う。それならば、「魂」と「身体」の相互関係であるメディア界を表現できるだろう。「もの」とは、d1、d2、d3、・・・dnの「素粒子」的側面を表現できるし、また極性力のゆらぎ・「波動」の側面を表現できるだろう。だから、図化すると、

1.産霊神・イデア界・デュナミス/2.「もの」(「魂」とX)・メディア界・エネルゲイア/3.肉体・現象界・エンテレケイア

となる。そして、考えると、「もの」とは、量子を指すだろう。粒子・波動である量子である。そして、「魂」とは波動であり、Xが粒子である。しかし、これらは、不可分である。だからこそ、「魂」を物質と切り離す考えは誤謬である。「魂」とは、メディア界における連結差異の極性力を指すのであり、Xと不可分である。ここで、Xとは、「魂」と対になる「物質」、「身体」であるが、どうも摘語が見つからない。器や容器でいいのかもしれない。すなわち、「魂」である極性力を容れる器・容器として差異連結状態あると考えてもいいだろう。だから、造語して、「魂器」としようか。ならば、「魂」・「魂器」としての「もの」である。それは、差異・極性力ということである。だから、さらに修正すると、

1.イデア界・産霊神・デュナミス・質料・「父」・善のイデア
2.メディア界(差異・極性力)・「もの」(「魂」・「魂器」)・エネルゲイア・形相・量子・心身・時空相対性・「神々」・「カオスモス」・コーラ
3.現象界・造化・エンテレケイア・個物・「コスモス」

となる。