自我・仮面・パフォーマンスと差異・共感倫理・メディア界知

村上龍氏のベストセラー小説「半島を出よ」にある、「自分たちはこれほど必死で日本全体の治安を考えているんですよというパフォーマンスにすぎないのだ」という一節が、ふと頭に浮かんでしまう。』
http://www.asyura2.com/0502/senkyo9/msg/907.html

この引用文から、自我の型について考えたいと思った。自己陶酔的感情、また、自己満足的感情の自我。自己弁明、自己肯定、自己暗示。これは、欺瞞である。この欺瞞を分析したい。これまでの分析では、差異を排出・隠蔽している精神である。差異に触れないようにして、自己欺瞞をして、自己演出、自己演技している。見せかけが重要である。自らも本心を見ないようにして、自己演技する。仮面である。しかし、安部公房の『他人の顔』でわかるように、仮面と自分が区別されなくなる。本心がわからなくなる。本心は、本来は差異である。仮面を演じ続けるのである。しかし、この仮面を破壊するものを憎む。それは、誠実なあり方である。差異の存在に対して、この仮面者は、反感・憎悪をもつ。仮面の下に隠した差異を提示するからである。
 では、なぜ、差異を恐れるのか。なぜ、自己の差異を見ようとしないのか。それは、差異に対する知性がないからである。差異に対する教育がないからである。差異に対する理解がないからである。差異はこの場合、メディア界である。メディア界はいわば苦悩の世界である。メディア界を直視することは、苦しむことである。苦悶するところである。共感・倫理の領域である。また、「神々」の領域である(本当はイデア界である)。この差異・メディア界領域は、個体にとり、危険な領域である。これを、言語的連続・同一性でもって排出・隠蔽して、自我・仮面形成するのである。これがパフォーマンス人間になる。この自我・仮面は、アイデンティティ(同一性)のために、善意と思えることをパフォーマンスするのであり、それに執着・拘泥するのである。これで、引用文の説明がつくだろう。
 そして、この「善意」は、実際は悪である。なぜなら、差異・メディア界の排出・隠蔽とは暴力であるからだ。自己に存するメディア界を排出・隠蔽する力は、当然、暴力である。存在するものを否定するのだから。否定・暴力をもった「善意」の仮面・パフォーマンスである。悪魔の「善意」である。差異・メディア界から共感・倫理が生まれるのだから、自我・仮面の悪とは、エゴイズムである。他者を否定する自我中心主義・独裁主義である。この二重構造を、近代的自我はもつと言えよう。(デカルトのコギトは、まったくこれとは別のものである。)この近代的自我の型が、現代、蔓延っているようだ。小泉首相がそうであるし、私の周囲にもいる。
 とまれ、ポスト近代主義である。差異・メディア界を認識すること、ここから始まる。

p.s. つけ加えると、排出・隠蔽された差異・メディア界についてであるが、それは、自我・仮面に対してどうなるだろうか。自我は、もともとは、メディア界の連続性の「強度」から生起するものだろう。だから、メディア界の力をベースにしている。そして、メディア界の差異、不連続性を排斥するのであるが、これは、当然、自己矛盾である。メディア界内部の闘争が起こるだろう。つまり、差異、不連続性にも当然、「強度」、「力」があると考えられる。だから、連続性であり、排出・隠蔽的な自我に対して、差異、不連続性は反撃・逆襲するのである。この差異の逆襲は、衝動・狂気となるのだろう。ここに、「精神分裂症」の原因が考えられるのではないか。自我・仮面により、自我が二重分化し、それが、乖離・分裂化する。そして、反作用だけでなく、差異のもつ力によって、自我・仮面は強襲される。「狂気」が襲うのである。(私は、首相は、このような精神状態ではないかと推断するのであるが。もっとも、今日、自我・仮面型の人にこの狂気が発動していると考えている。)

p.p.s. 自我・仮面的人間は、なぜ、善意を装うのかと言うと、それは、差異を否定するときに、自己快楽、すなわち、否定・破壊する快楽があり、その一種疑似歓喜、自己満足が、自己肯定、自惚れとなり、自己正当化となると言えよう。差異を否定したとき、自己正当化が生じたと言えよう。差異は悪であり、自己は善であるという独断というか、正に独善が生じるのである。これが、自我が善意を装うメカニズムだと考えられる。
 精神分析では、ここに去勢コンプレックスを考える。確かに、性的欲動もあるだろう。しかし、ここにあるのは、メディア界の差異と見るべきである。それは、多種多様な生成変化するものであり、それが、連続性によって否定されるのである。 
 とまれ、以上で、否定快楽が、善意を装わせる原因であることがわかった。連続性の欲望が、自己を肯定し、善意を装うのである。そして、この自我の「善意」が道徳となるのである。これは、当然、暴力・権力のイデオロギーである。つまり、悪が善の衣を着るのである。小泉首相の善の衣とは、郵政民営化であり、平和への祈念である。だから、この自我・仮面・パフォーマンスという形式は、ある意味でどうしようもないものだ。自己完結である。そして、狂気が拡大するのである。「悪魔」との闘いが必要である。差異と自我の闘いである。

3p.s. この問題は、私のいわば反復脅迫である。どうも、後一歩のところで、解答を取り逃がしている感じなのである。別立てで、論じたい。

4p.s. 結局、問題は、差異を排出して、自我形成するメカニズムの問題である。ここで、整理しよう。

1.連続性の意識にとって、差異は異質なものであるので、差異を排出・隠蔽して、自我形成するという考え。
2.差異の「欲動」・力は多様であり、他者との「共立」を指向するので、連続性の意識にとっては、他者であり、排斥したい欲求があるので、それを排出して、自我形成する。
3.差異であるメディア界は、苦痛に満ちた世界であるので、それを否定して、自我によって快楽の世界を得る。

精神分析フロイトの説は、3に相当しよう。思うに、1〜3の要素が、存していると思う。自我とは、連続性の知覚による差異の否定であり、連続性の肯定であり、その善化である。つまり、メディア界における不連続性と連続性との相克が生起するのであり、後者の勝利が自我である。しかし、これは、時限爆弾を抱えた勝利に過ぎない。この考え方で、いいと思う。連続性の知覚と不連続性の知覚との相克が生じるということに、自我の発生源があるとしていいと思う。つまり、不連続性を排出して、連続性の知覚が支配的になり、自我となるのである。これが、父権的意識であり、また、一神教的意識である。そして、これが、近代主義となる。そして、排出されていた不連続性、不連続的差異が復帰するのである。これが、ポスト近代主義である。多数の差異が肯定される多元主義である。しかも、差異はそれぞれ絶対的である。ただ、差異と差異とが相対的なのである。

p.s. 不連続性、不連続的差異の復帰とは、個体において何を意味するのか。そう、メディア界の意識である。これは、自己内他者の意識である。これにより、個が意識され、他者も個となる。つまり、個体、自己において、不連続的差異が認識される。それは、自己内他者である。そして、この他者から、自己外他者が認識される。個的共立指向が生まれる。結局、自己内他者・差異によって、自己外他者が生起する。そして、多数の差異というとき、それは、自己内他者である差異を指すと同時に、自己外他者である差異を指すと考えられるだろう。つまり、自己の内部に多数の差異があるのであり、同時に、自己の外部に多数の差異がある。後者は、多数の差異の差異と言えよう。
 とまれ、差異を否定した連続性・同一性の近代主義は、メディア界の力学から、当然終焉して、ポスト近代主義へと変容する。現代は、この転換期、相転移期と言えるだろう。スピノザは自由即必然と言った。