差異と霊魂(霊・スピリット):不連続的差異論による宗教・神秘学・

私は宗教的用語を用いているが、究極的には、宗教は消滅すると思う。しかし、人間の生存条件の過酷さ・理不尽さ・不合理さ等がある限り、宗教はなくならない。それは、必要とされるのである。だから、私は、宗教論において、不連続的差異論に呼応する限り、宗教的用語を使用するのである。また、宗教は、不連続的差異論的領域の表象とみることができるので、宗教論を展開するのは意味のあることである。
 さて、問題は、霊魂、死者の霊等の問題である。私の直感では、死者の霊とは、幻影であり、それは、メディア界的表象ではないかと思う。理論的に言うと、メディア界において、イデア界と現象界とが反照する。前者はいわば理念的超越界であり、後者は個別的世界である。両者が反照するとき、現象界の個別的像が、イデア界の差異の力に投影されることが考えられる。具体的に言えば、たとえば、親友Bを亡くしたAさんは、メディア界的意識(これは、通常の現象的意識とは異なる、一種特異な意識である)をもつとき、Bさんの「霊」を見たり、感じたりしたとしよう。この「霊」とは何であろうか。メディア界的意識とは、差異の存するイデア界に通じる側面をもつので、Aさんは、差異イデアを「感覚」感受すると言える。つまり、Aさんにとり、Bさんは、Aさんの「魂」に深く刻まれている人物である。「魂」とはメディア界のことと言えよう。つまり、通常の記憶ならば、現象界に留まるだろう。しかし、親友の場合、記憶は深くメディア界に達するのである。(深層心理学なら、無意識と言うだろう。)すなわち、Bさんの記憶は、イデア界に投影されることがあるのである。イデア界は差異イデアの永遠の世界であるから、当然、Bさんの記憶は、永遠性を帯びるように「感覚」知覚されるのである。これが、「霊」、「霊魂」、スピリットの起源であろう。それらは、現象界の映像の投影に過ぎないのである。実在するのは、差異イデアであり、これを誤って、現象的個別像化しているのである。宗教、神秘学、オカルティズムの世界は、ここに存すると言える。それは、イデア界の幻想を実在と見る非合理・不合理な見方である。しかし、感情的には、切なるものがあるだろうが、これを体系化して、ドグマ化するのは、明らかに誤謬であり、人間の精神・知性・理性を損ねると言わざるを得ない。(ついでに言えば、占星学もそのような側面があるだろう。差異イデアという本体を、「星座」、「惑星」、「神」としていると思う。)だから、輪廻転生も、誤謬である。それの意味するのは、差異イデア永遠回帰的発動であろう。また、宗教自体もそういうものだろう。神とは、差異イデアに投影された感覚像となる。
 さて、以上のように霊魂・スピリット・霊批判をすると、カルマと呼ばれるものは何であろうかということになる。カルマも同様であろう。カルマも投影であり、実在しない。つまり、現象界の出来事・事態・様態を連続的に超越界に投影して、カルマという観念が形成されるのである。先天的障碍をもったものは、それは、カルマではなくて、メディア界から現象界への転換において、突然変異的に、障碍を生じたものと見るべきである。これは、まったくメカニズム的である。メディア界から現象界への転換は不連続的である。カルマという連続的意味を形成するのは、連続概念を現象界において形成しやすいからである。無理やり、因果関係をつけようとするのである。そう、不連続的差異論からは、先天的障碍者あるいは後天的障碍者は、健常者と平等である。差異イデアにおいて一致するのである。
 とまれ、ここで、人間の個別的様態化を考えてみると、これは一種無慈悲のようなアトランダムの発動があるように思える。イデア界ないしメディア界がシャッフルしているみたいだ。イデア界とメディア界が、さいころ遊びをしているように見える。しかし、個別現象は、個別現象であり、いつかは消滅するのである。思うに、大事なのは、現象界・現世・この世において、差異イデアの英知をもつことだろう。「わたし」は、差異イデアの仮の姿、「空蝉」に過ぎないのである。疾く過ぎるのである。 では、悪はどういう意味をもつのか。悪の存在とは、他者の存在、他者のメディア界を阻害するものである。これは、苦痛・苦悩・苦悶をもたらす。また、イデア界の力を否定するものである。ここに、歪みが生じる。イデア界的正義に反する行為である。つまり、悪とは、根源世界の力の否定である。それは、正されるだろう。それは根本的「科学」であるからだ。そう、メディア界を介して、イデア界へ歪みの圧力が生じる。それを矯正すべく、悪への正義作用が発するだろう。「復讐するは我に在り」そう、イデア界の「復讐」があるだろう。正義は実現されるのである。そう、イデア界の正義において、おそらく、精神の差異が生じるだろう。というか、イデア界の正義の衝動・情動をもつ人が発生するのだ。悪に対して、イデア界は当然、修正作用として、正義力を発するのだ。それは、いわば無意識において、本当は、メディア界において、個々の人間において発出するだろう。差異イデアの正義の剣が、悪を罰するだろう。戦争の惨禍、小泉・ブッシュの悪等は正されずにはいないだろう。「復讐するは我に在り」