個の特異性と普遍性:不連続的差異論とキリスト教

EUは、憲法批准で、つまづいているようだが、私は、EUは、古ヨーロッパの螺旋的回帰ではないかと、推測する。古ヨーロッパとは、アメリカが言う古い欧州ではなくて、考古学的なものである。女神・母権的なヨーロッパである。アーリア民族が侵入する以前のヨーロッパである。父権・キリスト教的なヨーロッパは、衰退して、古層・基層が現れつつあるのではと思う。日本ならば、ヒミコ・アマテラスの日本である。多神教の復活である。
 さて、本件を考えよう。不連続的差異論において、個の特異性・差異とは、メディア界を介して、イデア界に通じる。わかりやすく言うと、個において、普遍性が生じるということである。個における普遍性とは何だろうか。それは、特異性=普遍性である。そして、特異性とは、多数あるということである。だから、多数の普遍性である。ここで、特異性と特異性の対話が生じる。つまり、不連続的差異論における個即普遍とは、多数・多元的なそれである。
 それに対して、キリスト教の普遍性とは、イエス・キリスト=普遍性であり、いわば、一者の普遍性である。多数・多元性は排されている。つまり、イエス・キリストが全体的普遍性となっているのである。一見、個の普遍性に見えるが、それは、個=全体的普遍性であり、不連続的差異論における、個=特異的普遍性とは異なる。もう少し、精緻に言うと、イエス・キリストの場合は、個=特異的全体的普遍性であり、不連続的差異論の場合は、個=特異的個別的普遍性である。前者は、一即全体であるのに対して、後者は、一即多元である。
 ここで、イスラム教について簡単に触れると、個=特異的一義性であろう。それは、一義性をイデア界とすれば、不連続的差異論と等価である。
 以上、これまでの検討を再確認できたと言えよう。
 
ここで、不連続的差異論のあり方を考えると、それは、個の共立連結であることがわかる。それは、差異のネットワークを意味する。キリスト教的「普遍性」とは、国家主義共同体主義である。現代は、キリスト教的「普遍性」と不連続的差異的普遍性の闘争の転換期なのだろう。ブッシュ/小泉は、当然前者である。グローバリズムとは、両面もっている。ポスト国家主義多元主義が未来であると言えよう。これは、地球連合を意味するだろう。中国、韓国・朝鮮、日本、台湾、等々は、地球連合のローカルになるのだろう。国家主義の括りは今日時代遅れである。