個と普遍性:イデア界的普遍性と全体的普遍性

antares2005-09-05

少し、確認したい。
不連続的差異論から見ると、個の普遍性とは、個が他者と共立連結することに存する。しかし、たとえば、キリスト教的普遍性、国家的普遍性とは、個ではなくて、キリストというモデル、国家というモデルが前提としてあり、個は疎外されるのである。しかし、イデア界の普遍性を考えると、後者は真の普遍性に値しない。真の普遍性とは、個・差異・特異性の共立連結にある。
 もう少し、精緻に見てみよう。個としての「私」の身心には、ある種普遍的情動がある。それは、「強度」をもつ。メディア界の極性力である。それは、連続/不連続性である。差異共立の力と差異連続の力がそこでは背反するように生成する。ここは、いわばカオスモスの領域である。自我は差異を排出して、連続・同一化する。反動暴力性がある。しかし、メディア界・カオスモスの領域は、自我へいわば反抗する。非合理主義のように見える。しかし、このカオスモスを能動的観念化、能動的知性化することで、カオスモス(p.s. ニーチェディオニュソスに相当するだろう)は、活動的な知に変換する。直観をもつ知性になる。そう、カオスモス・メディア界とは、一方において、イデア界的であり、他方、現象界的である。このイデア界性は、いわば特異性の情動・力・強度である。これが、現象界的になんらかの連続性をもとめたときが、反動となる(ドゥルーズガタリの再領土化)。とまれ、メディア界においては、特異性は十分特異性にはなっていない。連続性と接しているからだ。これが、これまでの哲学・芸術の袋小路であった。しかし、ここで、差異・特異性の不連続性をはっきり認識することで、突破できたのである。連続性から脱却して、メディア界からイデア界へと進展したのである。これは、身心のイデア界化と言えるのではないだろうか。身心において、イデア界性が分離するのだから。ここで、知即存在である差異イデアが確認されることとなるだろう。イデア界的人間となり、イデア界の根源力をもった存在となるだろう。そして、それは、明知を形成する。真実在的明知をもった認識力をもつようになるだろう。
 さて、結局、個とはイデア界的存在であることがわかるだろう。差異イデアである。そう、差異イデアが個の真実在である。おそらく、輪廻転生はないのだ。差異イデアが人類の共通の根源である。そして、メディア界の様相・形相・エネルゲイアによって、多様化されるのだ。「わたし」とは、メディア界化された差異イデアであろう。メディア界の様相的連続化によって、個別の「わたし」が発生するのだろう。だから、「わたし」とは、本来は、差異イデアであるが、同時に、メディア界/現象界的様相・様態でもある。コギト(我思う)とは、この両者並存において存するだろう。そして、スム(我在り)とは、本来的には差異イデアのことであろう。極論的に言えば、コギト・エルゴ・スムとは、差異イデアのはたらきだと言えるだろう。 
 ここで、オカルティズム、神秘主義、宗教の霊・スピリットについて言うと、それは幻影である。正に幽霊である。それは、メディア界が欲望する幻影・幻想である。本当は存在しないものである。このように考えると、現象は仮象・空であるというプラトンや仏教の考えは、説得力があるだろう。虚仮としての現象となる。しかしながら、現象は、イデア界、差異イデアの衣装と見ればいいだろう。そう、差異イデアを種子とすれば、現象は、芽、根、茎、葉、花、実の顕在性であろう。だから、輪廻転生とは違って、永劫回帰がここにはあると言えるだろう。「わたし」は、差異イデアとして、反復するのだと。個別としての「わたし」は、もともと存しない。あるいは、幻影である。差異イデアの多様な様相・様態としての「わたし」に過ぎないのだろう。