メディア界と古事記の三神:不連続的差異論と占星学と物理学

メディア界と古事記の三神

メディア界は、差異が極性連結する領域・軸である。簡単に記述する。

メディア界:d1±d2±d3±・・・±dn

これは、二極化する。

1)−d1+−d2+−d3+−・・・−dn+
2)+d1−+d2−+d3−+・・・+dn−

そして、これが、さらにそれぞれ、二分化されて、現象の四元性が生まれる。
とまれ、メディア界の極性二元性を見ると、この両者が、いわば、現象生成の二つの原理となるだろう。そして、古事記を自然生成の原理を神話的に表象していると見ると、高御産霊神(たかみむすびのかみ)と神産霊神(かみむすびのかみ)は、この二つの原理に相当するのではないだろうか。そして、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、メディア界自体を意味しているのではないだろうか。また、スピノザが能産的自然(natura naturance)と言うのは、これらと等価であろう。所産的自然(natura naturata)とは当然、現象界である。  
 では、八百万の神々とは、どうだろうか。おそらく、差異dの順列の多様性のことを意味するのではないだろうか。d1・d2の神1,d1・d3の神2、d1・d4の神3、等々のことではないだろうか。差異dnの多種多様な順列である。

1:d1|d2|d3|・・・|dn
2:d1|d2|d3|・・・|dn
3:d1|d2|d3|・・・|dn
・ ・・
n:d1|d2|d3|・・・|dn

2〜nは、ゼロ個の場合を含む。
n×(n+1)のn−1乗の順列があるだろう。
 とまれ、これが八百万の神々と作業仮説しよう。そのように考えると、イデア界の差異とは何であろうか。それは、いわば原神、前神、超神だろう。古事記ではどう表象されているのか。思うに、それは天照大神ではないだろうか。イデア界を総称しているのだと思う。プラトンの太陽、善のイデアに相当するだろう。差異自体は表象されていないが、イデア界総体を天照大神としているように思える。ここで、もし太陽系の差異が五つで済むのならば、アマテラスは五個の差異から構成されることになろう。少し、語呂合わせ的に言葉遊びすると、五十鈴(いすず)は、五つの鈴(い・すず)ではないか。(とまれ、この点は、後で検討しよう。)
上記から、とりあえず、次のように数化できるだろう。

イデア界5〜7/メディア界2or3/現象界4

イデア界の6とは、差異5個にイデア界全体の「太陽」を加えたものである。また、7とは、地球の半身のような月をそれに加えたものである。
さて、ここで、ユダヤ神秘学のカバラと比較すると、カバラの三つの柱は、メディア界に相当するだろう。また、10個のセフィロート(星)とは、
イデア界5×メディア界2=10個であろうか?  
 とまれ、ここでは、古事記の三神とメディア界の三元性の呼応が確認できればよいのである。

p.s. 女神の神話には、三人の女神(たとえば、美の三女神)が出てくるが、これも、このことを指しているのではないだろうか。

p.p.s. 先の順列数の式に差異5を入れて計算しよう。数式は、
n×(n+1)のn−1乗である。だから、
5×(5+1)の5−1乗=5×6の4乗=5×6×6×6×6=6480
となる。この数字は、メディア界の順列数である。これが現象化するということは、四元化することだから、4を掛けないといけない。
6480×4=25920
である。この数字に注目してほしい。占星学を少しかじったものなら、これが、プラトン年の数であることがすぐわかる。つまり、黄道を見かけの太陽が一周するのにかかる年数である。(太陽系の)現象界の順列数とプラトン年が一致するのである。これは、現象界が時空間であることの意味ではないだろうか。つまり、宇宙空間(太陽系)と時間の連続体である。すると、これは、相対性理論と重なるのではないだろうか。時空連続体である。そして、これは太陽が契機になっている。つまり、イデア界である。イデア界総体が原太陽である。それが、メディア界において差異の順列となる。しかし、メディア界にはイデア界の力が等しく作用している。つまり、力の等価原理である。だから、どの差異順列にも、イデア界の力の等価原理が適用される。差異順列平等原理である。そして、これが現象化されるのであるが、当然、差異順列現象化においても、この平等原理がはたらくはずである。これが、相対性理論光速度一定の原理ではないのか。つまり、イデア界の力が、メディア界の差異順列の力に分化し、それが、さらに現象界における個別現象の力へと分化する。この現象界の力の単位が光速度なのではないだろうか。光とはイデア界の光の影なのだ。太陽とは、イデア界の影なのだ。イデア界の光がメディア界でゆらぐ。それは、万華鏡、玉虫、虹、生成する多彩なグラデーションよりも、はるかに生成変化する世界である。幻視家が見る神の世界のヴィジョンはこれだろう。また、芸術家の見る世界も。そして、このメディア界の光が、おそらく四つに分化するのだ。物理学の四つの力とは等価だと思う。それが、相対性理論だろう。アインシュタインの切望した統一理論が、これで説明できるのではないだろうか。イデア界の光の理論で、統一化されるのだ。つまり、イデア界の光が、四つの力となると言えるのではないだろうか。
 では、量子論との関係はどうなるのだろうか。量子論は、メディア界のゆらぎを表現していると思われる。メディア界の極性によるゆらぎを、あるいは、メディア界の連結力によるゆらぎを表現しているだろう。メディア界における差異のゆらぎとは、いわば原時空間のゆらぎだから、時空間としては固定できないものであるというか、固定されていないのである。いわば、時空間がゆらいでいるのであるから、固定した時空間で測定はできないのである。流動するものをどうして固定できるのか。いわば、物自体であるメディア界の差異のゆらぎを、固定した時空間形式でどうして測定できよう。時間や空間自体がゆらいでいるのである。そう、ダリやシャガールの絵画を想起すればいいだろう。(シュールレアリズムとは、ある意味で、メディア界の表現であるが、その失敗は、きちんと理論化できなかったことである。ダダイズムもそうだろう。シュールレアリズムやダダイズムは、メディア界を予感していたろうが、それを明確に理論化できなかったのである。単に予感で終わり、デカダンスに陥ったのである。A=Bというシンタクスに、隠喩や換喩を機械的に入れたに過ぎないのである。つまり、精神分析構造主義の枠のままなのである。これは、カントの超越論的形式と同じである。単なる、自動的なメカニズムである。形式主義であり、近代合理主義の裏返しで、等価なのである。)  
 以上、量子論の場合、差異の順列の極性的ゆらぎを記述・表現しているということになり、それは、相対性理論の別の表現である。つまり、量子論相対性理論とは、メディア界の事象の異なる記述に過ぎないということである。量子論は差異順列の極性変化ないし極性様相を微分・分析的(速度と位置)に捉えようとしているのであり、相対性理論は、差異順列のそれを微分・総合的(時空間連続体)に捉えようとしているのではないだろうか。

3p.s. そう言えば、プラトン立体は5個しかない。これを活用して、ケプラーは、宇宙の法則を発見したのであった。ケプラーは占星学に精通してもいた。

cf.
http://renshi.ameblo.jp/entry-aab94d1c3624576762d3ce5c466d66ab.html
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-02/232.htm
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-04/445.htm