スピノザ哲学と不連続的差異論:スピノザ哲学の不連続性の可能性につ

余裕のあるとき、十分に検討したいが、スピノザ哲学とは、デカルト哲学の発展と見るべき性質をもっているという問題である。デカルト哲学が、コギトの哲学、単独性・特異性の哲学ならば、当然、スピノザ哲学もそれをベースにしていると考えられるのである。(ライプニッツは単子論で、デカルト哲学を進展させようとしたが、連続論的に展開した。微分積分論である。)すなわち、スピノザの『エチカ』の心身平行論とは、コギトをベースに展開されているのではないかという疑問である。コギト・エルゴ・スムとは、個の思惟と個の身体との関係性を意味する。(不連続的差異論からいえば、メディア界の事象である。)この相互関係性を、『エチカ』は扱っていると考えられるのである。すなわち、個の思惟と個の身体とは、不連続であるが、実体(=神即自然)において、一致する(存在の一義性の概念)ということである。そうならば、スピノザ哲学は、不連続的差異論に近いと考えられるのである。不連続的破壊主義のニーチェスピノザに稀有の共感を寄せたことは記憶されていい。とまれ、スピノザの『エチカ』は、コギト・個・特異性・差異を基礎としていると仮説しよう。そして、スピノザの実体(=神即自然)とは、思惟即延長であり、私が言う知即存在である。これは、差異としてのイデアである。そうならば、スピノザ哲学とは、ほぼ不連続的差異論の原型である。ただし、ニーチェのような不連続性の徹底が明確にされていない。スピノザニーチェドゥルーズの哲学の系譜は、哲学史では、力の哲学のそれとされるが、しかし、これは、今や不連続的差異論の系譜と言えよう。また、さらに、古代ギリシアから始まる西洋哲学を、不連続的差異論は、創造的に発展させ完成させたと言えよう。これは、また、西洋哲学の終焉であり、新しい地球・世界哲学である。そう、哲学の終焉でもあろう。新しい地球・世界の叡知である。