人間とは何か:イデア界の本来的発現としての人間

ここでは、人間の創出について考えたい。  
 人間の現象をイデア界のエンテレケイアと述べたので、内在的原因があるはずである。ここでは、推測を言うだけであるが、差異の90度回転によって、メディア界が生じるが、このメディア界では、極性力がはたらくのである。この力が差異と差異との連結にズレを生じさせるのだろう。時間の遅れと言ってもいい。デリダ差延である。イデア界においては、知即存在である差異は、無限速で、境界をもって共立していた(連なっていた)。そこでは、差異と差異との遅れはない。しかし、メディア界では、遅れが生じるのだ。差異と差異との連結が、身体を形成するとすれば、この身体形成には遅れを伴うだろう。しかし、これでは、人間と動物の区別ができない。ここで仮定して、人間の差異の「力」が、動物のそれより強いとしよう。ならば、メディア界での極性力が強いこととなり、ゆらぎも大きいと言えるだろう。思うに、このゆらぎの大きさが、人間身体の形成の遅れを引き起こすのではないだろうか。ゆらぎが小さければ、連続化は容易だろう。ということで、人間の場合、メディア界の極性力・「強度」が他の生物よりも強いために、ゆらぎが大きく、遅れの度合が強いと言えよう。言い換えると、イデア界性が人間の場合、強いと言えよう。そして、このようなメディア界的「感覚知覚」が強いと、現象界において、生存の困難さが生起するだろう。なぜなら、個体が個体して、決定しないからだ。揺らいでいるからだ。ここで、言語形成の意味があるだろう。これにより、連続・同一性が形成されて、個体は個体として、決定されるのである。すなわち、メディア界のゆらぎ、差異を排して、言語による連続・同一性への現象界へと転化するのである。これは自我への展開であるが、ジェンダー的には父権制の運動である。そして、西洋文明においてこれが顕著である。
 以上のように考えると、人間はイデア界のエンテレケイアという意味がより判明するだろう。動植物、鉱物は、イデア界のいわば即自態である。しかし、人間において対自態となるのである。イデア界は、差異が境界を隔てて、共立しているのであるから、原対自性をもっていると言えるのであり、それが、デュナミスであり、人間において、エンテレケイアとなるのだろう。そう、結局、人間存在、人間現象とは、イデア界の本来的発現であると言えるだろう。キリスト教で、人間は神の似姿と考えられているが、確かに、それはある意味で的確である。ただし、神ではなくて、イデア界にしないといけないし、一神教ではなくて、多神教としなくてはならない。