個と永劫回帰:死んだら個はどうなるのか

今、ふと思いついたのであるが、個が特異性・差異として思考し、存在するときは、永劫・永遠であるイデア界の差異・力が作動するのである。イデア界の差異・力によって、思考し、行為するのである。個の蓄積した知、経験、知恵を、差異・力が活用・運用するのである。個はだから、イデア界の差異・力の媒体である。そう、永遠不滅のイデア界の差異・力が作動しているのである。だから、個が死んだときは、個体は解体して、個に内在している差異・力がそのままイデア界に残ると言えよう。「わたし」は消滅する。そして、イデア界の差異・力が永遠不滅である。これが真の太陽である。プラトンの善のイデアである。ロレンスの黒い太陽である。真のアマテラスである。
 ここから見ると、人間とは、イデア界を自覚することを、エンテレケイアとしているだろう。おそらく、人間以外の万象は、イデア界即現象界を生きている、鉱物を含めて。ただ、人間だけが、自我の迷妄に囚われていて、イデア界を忘却するのだ。(ハイデガー存在忘却と言ったが、イデア界忘却と言うべきである。)仏教でいう無明である。とまれ、人間は自己意識をもつ動物である。この自己意識において、イデア界を認識することが、人間存在の大きな意味の一つだろう。そう、知即存在である差異・力の積極的発現として、人間現象があると言えよう。人間において、知と存在(思惟と延長)が分離する。しかるに、努力により、叡知により、真の根源界を知るのだ。根源界=イデア界の差異・力の即自かつ対自的現象存在(現存在)となるのだ。
 整理すると、イデア界においては、即自的、内包的に知はある。デュナミス(可能態)である。しかし、活動態(エネルゲイア)となり、そして、終局態(エンテレケイア)となることで、内包されたものが実現する。それは、知の実現である。イデア界・デュナミスにおいては、単なる可能性である知が、現象界において実現すると言えよう。しかるに、自我の無明によって、人間は、忘却するのだ。現象界の知のみに限定して、暴力・権力的に存在してしまうのだ。仏教、秘儀・密議、神秘学・隠秘学、神話・民話、その他宗教、哲学は、人間の自我の誤謬を説き、真の存在であるイデア界に目覚めることを説いてきたのだ。悟りとはこのこと以外にはない。いわば、イデア界の開示である。ここにおいて、万民万象万物万有は一つである。ただ、差異・境界・力の超太陽があるだけである。これが個の還元されるものである。

p.s. 考えてみると、自我とは不思議なのものである。これは、本来は感覚知覚に過ぎないだろう。動植物は、感覚知覚に生きていると言えるだろう。その感覚知覚とは、自我というよりは、原意識だろう。人間において、感覚知覚が意識へと変換する。【それは、人間の幼児期が長いことから発する、身体に対する知覚の優位によると言えるだろう。すなわち、身体行為に対する、知覚・認識の優位である。つまり、人間はまず観照する存在である。その観照による知覚から、身体行為へと転化するのである。そして、知と行為・実践を一致させていくのである(これが、知恵・「科学」の形成となる)。】この意識から自我が形成されるだろう。これは、これまで何度も述べてきたことであるが、感覚感情の受動反動から自我が発達するのである、それは、連続・同一性の志向をもち、感覚感情の「差異」を排出するのである。連続・同一性の志向とは、言語的同一性への志向である。差異を排出して、言語的に連続・同一化する志向である。この差異排出が、無明となるのである。そして、近代主義はこの極北であった。暴力・戦争・破壊・権力支配の世界である。ある意味で、これは人間、人類の幼年期か青年期である。知恵、英知がないのである。そして、自我を解体して、個、差異、特異性に転換することから、革命が始まる。排出された差異の力が流入して、イデア界に接続する。結局、人間のもつ長い幼年期による知覚と身体との優劣が、知と存在の分離を生起させ、そして自我となり、そして、それが反転して、差異へと回帰する。それは、イデア界への回帰である。即自かつ対自的に回帰するのである。これが、イデア界のエンテレケイアである。
 では、なぜ、人間だけに長い幼年期があるのかという問題が出てくる。突然変異と言えば、それで終わりである。これは難問なので、新たに考察したい。