イデア界の太陽と現象の太陽:イシス・オシリスと日輪

イデア界が「太陽」ならば、現象の太陽とは何か。イシス・オシリスの神話で言えば、イシスがイデア界全体、すなわち、差異たちであり、オシリスが、その全体の光であろう。イシスとオシリスはいわば一体である。イシスの光がオシリスだろう。D.H.ロレンスが『黙示録論』で言及したヨハネ黙示録の「日を着たる女」とはこのことだろう。"Isis clothed with Osiris" or "Isis in Osiris" 超太陽、超日輪と言ってもいいのだが。
 以前、私は、現象の太陽とは、差異の境界の現象だと述べたが、どうもそれでは、不十分だろう。差異と境界の総体が元(原・玄・超)太陽だから、現象の太陽は、ある意味で、差異/境界を内包しているのである。つまり、現象のエッセンスが太陽には内在していることとなろう。そして、惑星とは差異であり、当然、太陽と呼応している。太陽を王と表象するのは正しいだろう。しかし、太陽は、イデア界ないしイシスの象徴・表象である。すなわち、不連続的差異「達」あるいは、多数・無数の「一者」たちの象徴・表象である。
 では、大宇宙の恒星はどういう説明がつくだろうか。それは、イデア界/イシス・オシリスの「コピー」、フラクタル、「位相」的変容だろう。すなわち、メディア界におけるイデア界の差異の様相による変異の現象化であろう。つまり、バリアントとしての恒星である。そう、イデア界の影、影像たちである。
 また、以前、5個の差異で太陽系を説明しようとしたが、それを使えば、イデア界は5個の差異で形成されていることとなる。5個の差異が万物の根源となる。この点については、余裕のあるとき、再検討したい。やはり、5という数は、秘数である。というか、玄数、元数だろう。

参考:D.H.ロレンスの『黙示録論』に引用された聖書の一節:

"And there appeared a great wonder in heaven; a woman clothed with the sun, and the moon under her feet, and upon her head a crown of twelve stars: and she being with child cried, travailing in birth, and painted to be delivered.
・・・"
これは『ヨハネ黙示録』の第12章1〜9節からである。