ポスト一神教と不連続的差異論:新しい地球哲学・宗教のエポック・ア

受動反動的精神は、暴力・権力的である。問題は、メディア界の力の変容である。極性力があるメディア界にある。しかるに、受動反動精神は、この極性力を、極性分離力へと転化する。そして、内在する極性力を抑止する(反動的抑圧)。これは、現象界の力、作用と反作用の力である。ここには、ゆらぎの力、極性力が抑止されて、いわば欠落している。排中律の世界である。二項対立の世界である。戦争の世界である。ホッブズ的世界である。キリスト教的世界である。
 では、この抑止されているゆらぎの力、極性力は、何を意味するのだろうか。イデア界の力、虚力は永劫に存するのだから、当然、メディア界の力、極性力も発露する。そう、デュナミスによるエネルゲイアの奔出である(ちなみに、東方キリスト教会の「神のエネルゲイア」とは、メディア界の極性力、エネルゲイアのことだろう。また、さらに、ニーチェディオニュソスインド神話シヴァ神ヘラクレイトスの火もこれを指しているだろう)。この鬱勃たるエネルゲイアを、受動反動精神・自我は抑止しているのである。だから、当然、後者は、前者の能動的噴出に対して、抑えにかかるのである。英国の詩人・美術家であるウィリアム・ブレイクの作品から言えば、火焔であるオーク(Ork)を嫉妬深いユリゼン(Urizen)は抑えるということに当たる(その後、ブレイクは、創造力に当たるロス(Los)に救済に当たらされる)。この結果、前者は衝動暴力的に噴出するのである。すなわち、受動反動精神・自我は抑止によって、非合理的に、衝動的に暴力的になるのである。(おそらく、このメカニズムと精神病理は関係するだろうが、これは別の話である。)つまり、受動反動精神・自我は、狂気に憑かれるようになるのである。これが、受動反動精神・自我、すなわち、近代的自我の末路である。近代主義者は、非合理主義・狂気的になるのだ。(ブッシュ、小泉、金正日等はこの部類である。)そして、また、近代主義社会も、このような非合理主義・狂気・暴力が蔓延するのである。 
 ここまで考察すると、脱近代・ポストモダンへの転換の必然性の意味が明快になる。それは、メディア界の極性力、エネルゲイアを能動的肯定することである。しかしながら、これだけでは不十分である。まったく不十分である。なぜなら、実は、これはすでに、20世紀において実験されたからである。そして、実は、これも反動化したのである。だから、的確に言えば、メディア界の極性力、エネルゲイアの肯定に関しては、スピノザ的に能動・肯定的精神でなさなければならないし、またさらに、メディア界のもつ側面の連続性を切断しないといけないのである。この切断がこれまで、なかったためにほとんど反動的になったのである。ハイデガーナチスに惹かれたもの、この所為だと思う。結局、脱メディア界的「力」が必要なのである。メディア界の力を不連続化しないといけないのである。それによって、極性力、エネルゲイアは真に能動創造的力となるのである。ということは、メディア界の極性力、エネルゲイアを、イデア界的にするということではないだろうか。そう、極性力・エネルゲイアを不連続化することで、連続性を断ちきるのだから、メディア界にある差異、不連続的差異が表現されるようになるだろう。ということは、やはり、不連続性を意識した能動的精神において、メディア界を介して、イデア界の力・虚力、差異の共立する力が発現するということだろう。プラトンで言えば、善の太陽の発現である。ロレンスが言った黒い太陽であろう。

《通常の視覚には、イデア界の光はあまりに強過ぎて、目眩んでしまい、黒く映るのだ。また、今浮かんだが、縄文の遮光式土偶であるが、目を瞑っているのも、イデア界の光を見ているからだろう。卑弥呼、日見子、日巫女、聖(日知り)である。そう、さらに敷延すると、神道とは、イデア界宗教だろう。つまり、不連続的差異が存するイデア界は「太陽」として発現するのだろう。だから、イデア界は全体としては「太陽」一神教となるが、実は不連続的差異の多神教である。この視点から、さらに展開すると、折口信夫の『死者の書』や新神道説とは、やはり、イデア界を指していると言えるだろう。ロレンスの「父」もイデア界として、神々を不連続的差異と見ることができるだろう。ならば、ほぼ同時代人であった折口とロレンスはほぼ同じヴィジョンを見ていたのだ。では、このイデア界宗教は、一神教なのか多神教なのかとなるだろう。多神教ではあるが、多神が共立して一神を形成していると言えないことはない。そう、一種マンダラである。不連続的マンダラである。金剛界マンダラである。以前、多神教一神教の相補性と言ったが、そのように言えるだろう。とまれ、差異、不連続的差異が共立するところに太陽があり、光を発するのである。その太陽が「一神」である。そう、超神と呼ぶべきだろう。だから、一神教ではなくて、超神的多神教である。これが新しい多神教である。またさらに、付け加えると、仏教の光も、たとえば、阿弥陀如来(アミターヴァは、無量光)の光も、イデア界の光だろう。いろいろ連想がはたらくがここで留める。》

思うに、この不連続化されたメディア界の極性力が、イデア界の虚力という大根源力に通じるならば、スピノザ哲学の説く能動的精神とは、イデア界的精神にほとんど等しいように思う。おそらく、スピノザ自身は、イデア界的存在だったのだろうが、しかし、哲学としては、不連続論を明示していない。 
 さて、差異の不連続論を意識すると、イデア界に通じるのである。そして、知と存在とが連結すると言えるだろう。それまで、メディア界の連続性に囚われていたため、差異は、特異性と連続性との間で揺れ動いていた。すなわち、特異性という存在と連続性という同一性という知との分裂があったのである。しかし、差異を不連続化することで、この分裂が消失して、差異の特異性という存在と不連続性という差異という知が一体となり、差異は知即存在である不連続的差異になったのである。つまり、西洋哲学の存在論と認識論の分離がここで解消されたと言えるだろう。だから、ポスト西洋哲学である。ここで、東洋の宗教や哲学が創造的に更新されるのである。しかし、それは、西洋と東洋との創造的連結によるだろう。たとえば、空や無が能動創造的に力動化されるのである。すなわち、空や無は能動創造的なエネルゲイアを発出するイデア界・デュナミスとなるのである。キリスト教における無からの創造という教義があるが、これは、正にイデア界からの創造と換言できるだろう。ということは、一神教の唯一超越神は、不連続的差異の境界をもって共立するイデア界に変換されるということである。ポスト一神教である。結局、東洋と西洋の両者の超克であり、新しい地球哲学・宗教の誕生である。
 終わりに、一神教のことを付加すると、それは、メディア界の極性力において、連続的同一化の+の力の発現を意味するだろう。イデア界が反動的に連続・同一性化されたのである。ここで、さらに敷延すると、一神教以前の多神教、女神の宗教、自然宗教とは、イデア界の宗教であったと言えよう。D.H.ロレンスが唱えたコスモスの宗教とは、このことだろう。メディア界を通して、イデア界(「日を着たる女」)を幻視していたのだ。まだ、メディア界の連続的同一性の力は強化されていなかったのだ。一神教はこの宗教を破壊して、一(いつ)である超越神と、多である現象とにヒエラルキー・二項対立的に分離したのだ(天地創造)。これはまた父権制の発端でもある。母権制の崩壊であり、男尊女卑の始まりである。そして、今日、この連続的同一性の+の力に振れた時代は終焉して、揺り戻しで、不連続性へと回帰しているのだ。もっとも、進展的回帰、螺旋的回帰である。一神教的世界観・文明の終焉であり、新たな多神教的世界観・文明の夜明けである。反動的になったイデア界が能動的に肯定されて、再び、イデア界が本来の力で発現するエポックになったのである。そう、D.H.ロレンス折口信夫はこの新エポック・新アイオーンの先駆者であったろう。イデア界の太陽がふたたび「天の岩戸」から昇るときになったのである。新たな「アマテラス」のエポック・アイオーンである。