差異と観念:身体・身心と言語認識

人間において、身体ないし身心をメディア界と見ることができよう。すなわち、差異・強度ないし差異・力としての身体ないし身心である。そして、自己の思考においては、身体/身心による感覚を介した言語的認識が主体となる。直感・直観はあるが、思考の明確・明晰化には、言語が必要である。だから、主体において、メディア界を内在した「知」があり、メディア界/言語的認識の二重構造ないし相補性を形成している。(個ないし特異性とは、この二重構造ないし相補性にあるだろう。)メディア界に差異の連結があるのだが、その差異の特異性が、この身心構造ないし身心相補性に存していると言えるだろう。そして、思考においては、デカルトのコギト(我思う)となるのであり、スム(我在り)とは、この二重構造・相補性あるいは、メディア界を意味していよう。
さて、言語的認識において、個的主体は、特異的個体を対象として、観念的同一性において捉えるのであるが、ここでは、常に、ズレが生起するだろう。すなわち、メディア界ないし身心においては、特異性的感覚が生じるのであるが、言語的認識は同一性化となるのであるから。特異性/同一性の齟齬があるのである。この齟齬を差異と呼んでもいいが、この差異を維持するのが、コギト的個体である。これは、また批判的思考を生むだろう。また、以前、述べた反動的自我とは、このズレ・差異ないしメディア界性を排出・隠蔽し、同一性となった自己のことであり、このズレ・差異ないしメディア界性が、反動性である暴力・権力を生起するのである。また、この視点から見ると、カント哲学とは、このズレ・差異を基盤にしているのであり、メディア界を物自体にしていて、また言語的認識を超越論的形式にしているのがわかる。しかしながら、カント哲学の限界は、正に同一性である。言語的認識を知のベースにしているため、特異性を捉えられないのである。確かに、差異が無意識にあるが、それが言語的認識=同一性=超越論的形式によって規制されているため、差異が形式と経験の二元論に分離しているのである。『判断力批判』の構想力(想像力)は、両者の透き間から発出した差異の変容であるが、しかし、やはり、上記の規制のため、不十分な差異である。ついでに言えば、このカントにおいて無意識である差異・特異性ないしメディア界が、これ以降の、すなわち、ポスト・モダンの真の対象である。シュティルナーキルケゴールニーチェ現象学精神分析ユング心理学、神話学、神秘学、実存主義構造主義ポスト構造主義等である。(もっとも、差異とは単に観念の世界ではなくて、まさに、社会、経済、宇宙等総体に連結しているのである。)とまれ、以上から、特異性・差異の認識が確認できたであろう。