スピノザ哲学と不連続的差異論:神即自然とイデア界

スピノザ哲学(『エチカ』)の骨格はよく知られているように、

1.実体(神即自然)/2.属性(思惟・延長)/3.様態

という構成をもっている。それに対して、不連続的差異論は、

1.イデア界(不連続的差異)/2.メディア界/3。現象界

という構成をもつ。三部構成という点では共通であり、これを平行させていいのかということが問題である。2のメディア界であるが、これは、差異の90度回転によるある差異の連結した状態を指していて、不連続であったり、連続であったり、ユラギの状態にある領域である。それは、差異・強度ないし差異・力で表記できるものである。スピノザの思惟に当たるのは、強度や力であり、延長は、差異の方だろう。もっとも、差異と強度とは、不可分と考えないといけないが。
 ここで、より特定化すると、スピノザの方法論の一つである能動的観念について考えると、それは、強度的思考を反動的なものから、積極・能動的なものにすることと考えられる。それは、メディア界をより積極・賦活化するものであり、当然、主体もそうなるのである。これは何を意味するのか。私見では、メディア界において、差異・強度ないし差異・力がよりイデア界的になることだと思う。すなわち、差異が並存するような状態が主体のメディア界に発現するようになるのだと思う。歓び、歓喜が身心の基礎となるのである。しかし、この能動化されたメディア界をもつ主体の意識には、イデア界自体は現れていないだろう。スピノザ哲学では、能動的観念をもち、さらに、共通概念を、他者と他者の間に形成し、そして、第三の観念として、一義性の概念を構築する。これが、神=自然の「観念」の世界である。それは、いわば、理念の世界、あるいは、私の言葉では、知即存在の世界である。だから、イデア界であると言っていい。すると、スピノザ哲学において、その方法論の展開から、イデア界へと指向していると言える。だから、スピノザ哲学と不連続的差異論は平行的であると見ていい。そして、前者の一義性の観念であるが、それは、結局、統一的なものではなくて、個的な理念である。すると、個的な理念に満たされた神即自然の根源界が実体である。そして、この個的理念と神・自然との関係が問題である。ここで、連続的か、不連続的かの問題があるのである。今の私見では、スピノザ哲学自体では、この問題は、未解決だと思う。この問題は、結局、ニーチェが積極的に解いたと考えられる。すなわち、単独性・特異性の哲学である。これにより、理念の連続性が切断されて、理念の不連続性が出現したと思う。この問題をポスト構造主義を引き受けて、デリダ脱構築主義、ドゥルーズは差異の理論を唱えたが、前者は、理念の不連続性を強調するあまり、理念自体が不在になってしまったし、後者は、ベルクソンハイデガーの連続的差異(=微分)に囚われていて、ニーチェの特異性の哲学の展開することができなかったのである。フーコーは、ニーチェを継いでいたが、理論的展開よりも、フーコー自身の特異性に立った権力批判を展開したと言えよう。ということで、ポスト・モダンの理論は、ニーチェ哲学を継承し、独自な展開を行ったものの、哲学の根源的な問題を理論的に解決することはできなかったのである。そして、不連続的差異論がこれを解決したと自負している。
 少し考察がそれたが、本テーマにもどると、スピノザ哲学と不連続的差異論の平行性が確認できたし、結局、後者は、スピノザ哲学、ニーチェ哲学、ポスト・モダン哲学/ポスト構造主義哲学を継承して、西洋哲学の基礎・根本的問題を解決したと言える。ドゥルーズ哲学にはプラトン哲学の問題があるが、不連続的差異論は、プラトン哲学の創造的発展・進展ともなったし、さらに、プラトン哲学の批判と考えられているアリストテレス哲学の理論をも取り込んで、組み入れることができたのである。
 とまれ、以上の解明から、敷延的に、これまでの未解決の問題に適用すると、たとえば、折口信夫の『死者の書』や新神道論であるが、一神教多神教とで揺らいでいたが、結局、これは、スピノザ哲学の神学と同様の問題であると言えよう。すなわち、連続性を見るのか、不連続性を見るのかである。結局、折口はほぼスピノザ的視点までは達したが、それからの展開はなかったのである。そして、D.H.ロレンスであるが、彼は、新たな多神教と唱えたが、「父」をさらに提起していた。「父」とは、多神教のレベルとは区別されるものであり、不連続的であるイデア界を示唆したと言えるだろう。
 もう少し整理すると、折口は確かに超越性に達していた。それはイデア界とメディア界の境界であるメディア軸の次元である。そして、そこで一神教多神教かで揺らいでいたのである。それてに対して、D.H.ロレンスは、メディア軸を超えて、「父」を説くことで、イデア界を指示していたのである。
 最後に、スピノザ哲学について確認すると、上述で、平行性を見たが、折口の問題から疑問が出るのである。果たして、スピノザ哲学の神即自然=実体は、イデア界と平行なのかである。能動的観念、共通概念、第三の観念へと展開するが、しかし、連続性と不連続性の区別があいまいであるということは、やはり、メディア軸の視点の側面が強いと言えるだろう。揺れ動いてはいないが、イデア界とメディア界が未分化的であると言えるだろう。だから、平行性はその点を考慮しないといけない。また、折口の場合も同様に、未分化的というのが正しいだろう。
 
p.s. 最後の考察から、メディア軸を二つ考えるべきではと思った。すなわち、イデア界とメディア界の境界とメディア界と現象界の境界である。前者を第一のメディア軸、後者を第二のメディア軸ととりあえず呼ぼう。スピノザや折口は第一のメディア軸に立っていて、イデア界とメディア界が未分化的であったのである。ロレンスも第一のメディア軸に立ち、かつ、それを超えて、イデア界を全体として捉えていた。

p.p.s. 平行性について、後で、再検討する。