メディア界と量子論:差異の連続・不連続性と量子

先の検討を明快にしよう。

1.イデア界の力をイデア力とする。
2.メディア界の力をメディア力とする。
3.現象界の力を現象力とする。

メディア力と現象力(物質エネルギー)との関係、すなわち、メディア力と量子論の関係を整理しよう。メディア力とは、差異の90度回転における差異の連結状態における力である。それは、差異の極性をもつ力である。すなわち、連続指向力であるプラス極と不連続指向力であるマイナス極をもつ。簡単に差異極性力と呼べるだろう。図式化すると、
 
    −差異+

と表記できよう。これが、メディア力である。そして、このメディア界の差異をメディア子ないしメディア差異子(差異子とする)と呼べるだろう。そこで、量子論を見ると、量子ないし素粒子とは、差異子の現象界における反映と見ることができる。
   
  メディア界     現象界

−差異+(=差異子)→量子・素粒子


ここで、両者の対応関係を見ると、量子の粒子・波動の相補性であるが、先に、差異子の+極(連続極)を波動、−極(不連続極)を粒子に対応させたが、それは保留しておく。思うに、差異子の極性が量子の相補性として発現しているとは言えるだろう。すなわち、差異子の極性的相補性が、量子の粒子・波動の相補性として発現しているということである。そして、差異子の+極(連続極)とは、量子の生成面であり、差異子の−極(不連続極)とは、量子の消滅面であろう。だから、差異子の+極が量子の相補性に対応すると言える。すなわち、差異子の連続極が、量子の相補性として発現するということになるだろう。

差異子1・差異子2・差異子3・・・・・差異子n
         
           ↓
     
         粒子・波動
  
この図式から見ると、粒子に相応するのが、差異子であり、波動に相応するのが、差異子の連続化ではないだろうか。つまり、差異子が粒子に、差異子の+極性が波動になるのではないだろうか。いちおう、作業仮説としよう。そうならば、この差異子論で、4つの力は統一的に説明できるのではないだろうか。重力、電磁気力、強い力、弱い力という物質自然界の4つの力とは、差異子の様態として説明できるだろう。すなわち、差異子の4つの様相・様態となるだろう。ここで、単に+極(連続極)だけでなく、−極(不連続極)を含めて、見るべきだろう。差異子全体の様態として、4つの力を考えることができるだろう。すると、4つの力とは、差異子の力、メディア力の反映であるのだから、現象界の観測においては、力の記述は、常に不十分となるだろう。現象界においては、差異子、メディア力はいわば物自体となって、観測できないから、現象界においては、未知の領域が生起すると言えよう。物理学のダークマター反物質等は、そのようなものではないだろうか。また、スーパーストリング理論であるが、不連続的差異論に立つともっと簡潔明快なものとして記述されるのではないだろうか。差異のスーパーストリング理論になるのではないか。差異連結の軸が、スーパーストリングとなり、ここに差異がいわば連なるのである。超連差異論である。差異連結の軸とは、メディア界ないしイデア界とメディア界の境界を指すだろう。そう、メディア軸と呼んでいいだろう。メディア軸が、現象界の直接の根源である。スーパーストリングとは、メディア軸のことであり、また、神話でいう宇宙樹(ユグドラシル)もメディア軸の反映だろうし、また、プラトンのコーラもこれを指しているだろう。現象界の母胎であるメディア軸である。

p.s. 差異子の+極が波動になるのではと言ったが、単に+極だけではなく、−極も含めてそう見るべきだ。差異子の極性が波動となるのだろう。

p.p.s. ここで、相対性理論について簡単に言及しよう。差異子の極性の力が、時空間を生起させると考えられるから、時空不可分の様態として現象が生起する。そして、また、差異子と極性は不可分だから、物質は時空間と不可分である。しかし、多様な現象であるが、根源はメディア軸にある差異子・極性である。

差異子1±差異子2±差異子3±・・・±差異子n
          ↓
      時空四次元物質現象

相対性理論では、E=mccである。(Eはエネルギー、mは質量、cは光速)
cとは、差異子の極性の発現だろう。)
ここで、差異子の連結を位相空間と見ることができるだろう。位相的多様体である。この多様性が現象界においても発現するのである。それが、相対性理論の時空四次元体を意味するだろう。しかし、差異子の位相性の絶対値は不変である。メディア軸の構造として一定である。すなわち、差異・極性というメディア力である。この一定のメディア力が、光速度一定の原則となっているのだろう。つまり、差異子の極性は一定なのである。それが、位相的に変化して、時空の相対性が生起するが、時空四次元性の構造であるメディア軸ないしメディア界は不変である。だから、光速度とは、やはり、差異子の極性の反映と言えるだろう。そして、差異子の反映が、物質であろう。つまり、

差異子・極性→質量・光速度
メディア力→エネルギー(現象力)

であろう。これは、上記の量子論と等価である。すなわち、

差異子1±差異子2±差異子3±・・・±差異子n
          ↓
     粒子・波動:質量・光速度
 
ここで、さらに身体論へと展開すると、いわゆる五感ないし身体感覚は、確かに現象体の感覚であるが、これは、メディア力が根源である。すなわち、差異子・極性が身体に作用して、感覚現象となるのである。身体は、それ自体、差異子・極性の連結体と考えられるから、感覚現象は、メディア界の出来事と考えられるだろう。そう、感覚現象は、メディア界に接していると考えられる。というか、メディア軸の表出・反映として身体が考えられるのであり、その身体に生起する感覚現象とは、正にメディア界の出来事だろう。身体感覚とは、ほぼメディア界ないしメディア軸と考えられる。ただ、連続体となっている点が異なるだけだろう。つまり、メディア軸の連続体としての身体ないし身体感覚である。そして、精神・知性・思考とは、差異子の極性の反映であろう。だから、身心・心身において、メディア界の差異子・極性が反映されていると見ることができるだろう。そう、身体とは、差異子・極性の連続体であるから、差異子・極性を帯びていると言えるだろう。それに対して、精神・知性・思考は、差異子・極性の生成変化を排出隠蔽するように連続的同一性の指向をもつ。すなわち、言語的連続的同一性の観念(カントの超越論的形式)の指向をもつのである。だから、身心において、差異と同一性の二重構造(アンチノミー)がある。とまれ、身体感覚に忠実であることにより、思考者は、連続性/同一性を破って、差異子を知覚することができるはずである。すくなくとも、差異子に対応する身体を知覚できるはずである。ここには、差異子・極性の力、極性力があるはずである。あるいは、簡単に(メディア力としての)差異力と言っていい。すなわち、身体感覚には差異力が生起するはずである。そして、この差異力は発生的には、肯定・否定の両面をもつが、基本は受動性である。受動性への反応という点では、反動である。この始原的な反動性を積極的に能動化することで、差異力を活用することができる。これがスピノザ哲学の能動的観念の方法である。とまれ、身体ないし身体感覚にメディア力、差異力を見たが、これが特異性であり、ここにおいて、差異の共存への指向が生起する。しかし、問題は、ここは、連続性の側面すなわち反動・権力的側面があるので、それを切断しないといけない。そして、不連続的差異論がそれを理論的に行ったのである。これにより、差異共存・共立・共生のあり方が明確にされたと言えよう。すなわち、差異力のもつ欲望・倫理の相補性である。これによって、差異は自立し、また共立するのである。不連続的差異力のもつ欲望と倫理の相補性がそれを可能にするのである。さらに、付加すると、身体差異力とは、波動性や光に相当するから、ヴィジョン・幻視としては、光のヴィジョン・幻視になるだろう。宗教・神話の太陽神とは、これであろう。外界の太陽というよりは、身体差異力としての「太陽」である。そして、エジプト神話のオシリスがこれであるし、折口信夫の『死者の書』の郎女の見た「太陽神」もそうであるし、ロレンスの言う「太陽」もそうだろう。それはイシスとともにある太陽神である。すなわち、イシス=女神を差異とすれば、差異とともにある極性力である。メディア力である。だから、一神教が太陽神を取り込むのは、連続性/同一性の極限においてである。それは、極性力を連続性/同一性へと同化させたのである。光であるキリストとは、超越神ヤハウェに吸収同化されたが、実は、それは、本来、メディア界の極性力である。ヤハウェとは不連続である。 
 また、折口が考えた新しい神道であるが、一神教多神教かで揺れ動いていたが、この視点から見ると明快になるだろう。すなわち、太陽神とは差異力であるから、それは、多神教の体系に入るべきものである。差異力として、差異子と連結すべきものである。すなわち、多神教の「メディア」としての太陽神である。多神教の連結の力としての太陽神である。それは、確かに一神教への指向をもつが、不連続的差異論から見て、多神教とともにある一神である。一神教ではない。もっとも、確かに、他の神とは別の意義をもつ神ではあるが。ということで、折口の新神道とは、新多神教と呼ぶのが正しい。それは、個における新多神教である。そして、ロレンスのコスモス的宗教であるが、それも多神教一神教で揺れ動いているが、これも折口と同様のことが言えるだろう。ロレンスの一神教性は、やはり、メディア界の連続性/同一性によるのであるから、不連続的差異論から連続性の指向(構造)を脱構築して、差異力を差異(多神教)とともにあるものとして、多神と並存する一神として定置すべきである。新しい多神教である。新しいコスモス的宗教である。一神教ではない多神教としてのコスモス的宗教である。父を抜いたコスモス的宗教である。そう、父は死んだのである。妣が復活したのである。あるいは、父は復活したが、妣とともにある父である。やはり、新多神教である。ポスト一神教