メディア界の極性強度の運動:反動化と差異化

反動的自我とは、近代的自我である。それは、差異を連続的同一性すなわち超越論的形式(=ヘーゲルの理性)で、統一しようとする暴力的観念・知性である。差異を支配しようとする自我知性である。+強度と反動暴力との関係をもう少し精緻に見てみたい。すなわち、+強度がすべて反動なのかどうか。差異の90度回転でメディア界の連続性が生起するが、それは、ゆらぎの領域であり、差異であったり、同一性であったりする。だから、両者は同一ではない。反動となるには、さらに、差異を支配する+強度が必要だ。それこそ、真の父権化である。一神教化である。フーコーで言えば、知への意志である。これは、支配的知への意志ということである。では、なぜ、支配性が出てくるのか。それは、「力」の問題である。 
 もう一度、整理しよう。イデア界に差異があり、それが、90度回転して、メディア界を形成する。これは、+強度による。ここで、これまでの考察とは異なる作業仮説を立てたい。すなわち、差異の90度回転は、いわばイデア界の力によるものである。これを虚度ないし虚力と言おう。そして、差異90度回転によるメディア界は、男女共通とする。そして、ここのメディア界の強度が男女異なるということである。男性は+強度を、女性は−強度を帯びる。+強度はこれまで通り、連続化への「力」であり、−強度は差異を指向する「力」である。つまり、メディア界において、+強度と−強度が均衡しているのである。そして、これが分極化して、女男の分離が成立するのだろう。これは、身体というよりは、ジェンダーである。ここにある強度は様相と言えよう。この様相強度がジェンダーを決定するのだろう。そして、父権的自己とは、+強度指向であり、差異を支配すると言えようし、母権的自己とは、−強度指向であり、差異を指向すると言えよう。そして、一神教とは、前者の指向の帰結であろう。しかしながら、強度は極性をもつのだから、+強度に対して、−強度が反作用としてはたらき、− 強度に対して、+強度が反作用として機能すると言える。そして、前者において、連続化が主導的であるため、−強度は反動的になると言えるし、後者において、差異化が主導的であるた、+強度が反動的になるのだろう。通俗的に、男性が暴力的、女性が感情的というのは、これで説明がつくだろう、もちろん、一般的にであるが。
 結局、この強度極性の問題の解決は、男性においては、差異の肯定、女性においては、連続性の肯定によるだろう。すなわち、自我の肯定である。男性は、差異的自我・個となり、女性は、自我的差異・個となるだろう。
そして、これを、経済論的に言えば、+強度である一神教・父権・近代的資本主義から−強度による多神教・母権・ポストモダン的差異資本主義への転換ということである。また、この差異化の時代において、−強度の差異性が主導的である女性が活躍することが帰結される。
 これは歴史的にどういうことかと考えると、+強度に振れたメディア界が−強度によって揺り戻されているということだろう。これは、差異自体、イデア界自体の力学である。ここで、作業仮説であるが、メディア界が90度回転で、+強度化が180度回転で、再メディア界化が270度回転ということではないだろうか。これは後で、検討したい。一度考えたことはあるが。