+強度的自我と反動・暴力

自我は、これまでの検討から、差異の連続化とそれによる差異の排出・隠蔽によって形成される。わかりやすく言えば、差異が「抑圧・排除」されるということである。これは、連続化の徹底である。そして、自我悪を意味する。しかし、差異が+強度化するということは、反作用で、−強度を生むということだと思う。ならば、自我に対して、−強度である差異化が、生起するはずである。深層心理学では、無意識と呼んだものであるが、不連続的差異論では、差異の強度、−強度と呼べる。ここで、自我の+強度と差異の−強度とのいわば葛藤が生じるだろう。これは、いわば、心身の病気である。神経・精神の病気は、この葛藤が解消されていないことを意味するだろう。しかし、この治癒とは、個の創造性の必要をともなうだろう。なぜなら、差異とは、特異性であり、創造的表現を必要とするからだ。
 とまれ、差異の強度の発出に対して、うまく対応すれば、というか、それを肯定していけば、脱自我となり、個となるだろう。特異な個となるだろう。しかし、この発出する差異の−強度に対して、反動的な態度をとれば、その分、反動力が強化しているのである。すなわち、暴力的な自我となるのである。権力的になるのである。差異を肯定しない反動的自我が、この世の悪と言えるだろう。そして、近代的資本主義を見ると、正に、この反動的自我とパラレルである。「力」の必然性は、差異、差異的資本主義への転換を指向している。差異の知恵と強度によって、反動勢力を突破する必要がある。それは、政治・経済・社会・文化等のあらゆる領域に渡る。
 さて、一つ付け加えると、反動とは、論理的整合性がないのである。イデオロギー的である。イラク戦争郵政民営化等々、イデオロギー大義に過ぎない。ここで、市民衆の知恵と力が試されているのである。

p.s. 結局、この反動的自我とは、反動的な父権的自我ということであり、一神教国民国家主義と一体である。差異的自己・新多神教・差異資本主義・差異的市民衆主義へと突破しないといけない。




■自己コメント

これは、これまで述べてきたことの復習である。ただ、+と−の極性を確定して述べていることが新しいだろう。
ソフィオ (2005-05-15 13:48:40)